首輪ではなく記号だ

判る人だけ判ってくれればいい話。
 
HOLY MOSES/World Chaos

↑こういったものを従属と抑圧の象徴である日本語の女言葉で訳すのは歌い手に対する冒涜だと私は感じる。
 
だいたい、「女言葉」という規定があり、それが文化的・社会的に決った意味を持っているという概念自体、欧州言語話者にとっては珍しいのではないか。
(今はとりあえず日本語と欧州言語のみの話をしている。世界中探せば文化的・社会的な性別規定を強く持った言語は恐らく存在するだろう。)
 
ただ、形容詞などで、男性と女性で形が決っていることが、欧州言語にはある。

例1:イタリア語で「おなかいっぱいです」
男性が言う場合:Sono pieno.
女性が言う場合:Sono piena.
 
例2:イタリア語で「ようこそ!」
男性に対して言う場合:Benvenuto!
女性に対して言う場合:Benvenuta!

 
英語でも、女性が好んで使う単語、とか、風潮があるにはあるし、「話し方」で性別の特徴を出すことは普通にある。

が、そのていどだ。
日本語における女言葉のような、単なる身体的性別ではなくて文化的・社会的な意味を思い切り背負ったものは私の知る限りないため、こないだうち、HOLY MOSESの映像をいろいろ観て、その後いろいろ考えていて、結局ふと、やはり記号は記号にすぎないというところにとりあえず行き着いた。
 
いや、女言葉が記号だってのは前も書いたかも知れないけど、今回思ったのは、「日本及び日本語に特有なものだとすれば、別にそれは真理ではないのではないか?」ということだ。
記号はもともと真理ではないけれども、しかし、日本社会にいると、性別の記号があたかも真理のごとく思い込まされてしまう。
文章を書く際に必ずのしかかってくる「女性の発話をどう表現するか」という問題、これを問題と感じないのならばそれはそれでそういう世界に生き続けるのはかまわないとは思うが、私にとっては常に問題なのであって、それはやはり足枷として、いや、首輪についた鎖として、「ねばならない」が歴然として存在するからだ。
 
しかし、とりあえず自分が認識している女言葉というものが日本及び日本語に特有なものだとするならば、つまり、別の世界に行けば「そういう意味合いを背負ったものは存在しない」のならば、それは記号、もしくは幻想と言ってもいいのではないか?
  
もちろん世界各地で女性は低くみられているのだけれども、日本において言えば、「記号性」にここまで生きる様式を規定されている必要も筋合いもないのではないか?
 
ということでゆうべ書いた「(言語における表現の)豊かさは足枷である」という話の一部を書きますた。