いろいろどうでもよくなってきたので昨日紹介したかったブログを紹介しやう。

ガメ・オベールの日本語練習帳v_大庭亀夫の休日

驚くなかれ、この日本語でニュージーランド人らすい。
 
不思議なんだけど、昨日このブログを初めて読んだ、と思っていたのだが、

理解し合う、ということ

このエントリの、

前にも書いたが英語には「悔しい」という言葉も「反省」という言葉もない。

その言葉が前提としている現実そのものが存在しないからです。

という部分は読んだことがある。
絶対にある。
「だよね」と思ったし、翻訳の限界(つーか翻訳なんてもともと有用でも何でもないのだが)について考え始めていたころで、より「だよね」と思った覚えがある。
 
どっかでこの部分だけコピペされてたのかな?
 
 
さて、翻訳が有用か有用でないか、とかいう話をするまえに、昨日のエントリは日本語がちらほら間違っていたのでこっそり直した。
と、そんなレベルの者が言うことでもないが、翻訳ね。
 
私が翻訳を否定する方向に行ったのは、強烈な「判りたい」という願望があるからだ。
翻訳されたものは、私の「判りたい」というニーズには、応えられない。
 
世界のことは判らない。
異文化のことは判らない。
他人のことは判らない。
自分のことも判らない。
「努力すれば判るだろう」
という考え自体がおこがましいのであって、これらの正しいありかたは、「判らない」のはずだ。
 
けれど、私のどこか奥底から発生する強烈な願望は、とにかく「判りたい」というベクトルだけを私に与え、具体的にどうすればいいのか、「判る」ことのゴールは何であるのか、一切知らせないまま、ここ何年か私を右往左往させた。
 
言語学習に走ったのも、この願望のせいだ。
自分について徹底的に突き詰める、あるいは、自分を徹底的に救う、という、そろそろ10年になろうかという試みも、この願望が
「今の自分のままではわし(願望)の願いが達成できないから」
という理由のもとに、私に課したものにほかならないと感じる。
 
 
私にとって外国語は悲しいものであった。
だって、相手の言っていることが判らないんだもの。
だからえっちらおっちら努力して、英語は何とか判るような気になるところまできたけれども、それでもちょっと英語から離れていたら、例えば字幕なしで映画でも観ましょうとか、けっこう辛いですよ。
 
だから私は言語のセンスなんてずえんずえんないと思っている。
もし私がひとより優れたところがあるとすれば、耳がいいことくらいである。
で、日々、あれだけやってこのくらいしか英語が判らん、つか横文字はうけつけん、とか、あれだけイタリア語の歌を聴いてもまだ言葉として歌詞が入ってこない、とか、あ、もうキリル文字もあまり読めなくなってる、とか、ハングルはけっこういける、とか、やっている。
 
 
でも、こんなぶざまな状態でも、多言語をかじってみてつかんだのは、
「その言語世界に入らないと判らないもの」
がある、ということであり、また、翻訳を生業としていることから、特に歌詞の和訳において、
「自分はひょっとするともとから不可能なことをやっているのでは」
といつも感じるようになった。
 
だって、"oh"は「おお」や「ああ」なの?
"baby"は「ベイビー」や「愛しい君」なの?
どこにそんな日本語を使う世界があるの?
 
翻訳が何か、という前提が違えば、また、翻訳の限界を最初から理解していれば、こんな話は、まあ、あんまり意味ないけれども、結局、私にとって、翻訳は、「世界を移してくること」であって、だからこそ、不可能なのだ。
 
世界の移植が、可能だと思いますか?
 
 
このへんがもしぴんとこない場合は、
「言語は世界である」
という話をするべきなんだろうけれども、わしが何時間使って説明するより、飛行機乗って、どっかへ行って見てくるのが一番いい。
ツアー旅行でも、いいけれども、例えば、現地の交通機関に乗り込んで、周囲を警戒したり、乗換えを間違えたり、そういうところに、ほんとの「異世界」体感があるのであって、とか言って、今度の旅行はツアーで行くつもりだけれど。
 
あるいは、サイアク、映画とか、異世界の映像を見るのも、方法としてワルクないのではないかのう。
「言葉で」訳されたものは、あくまでも「訳した人」の作った世界だから、読み手が独自の感じ方や解釈ができるとしても、それはあくまでも「訳者の見て焼き直したつもりの世界」を、あなたがどう感じるか、ってことであって、決して、描かれている土地や舞台そのものについて何かを感じることにはならない。
 
こういうのって、きっと傲慢に聞えるのだろうな。
「おまへはとりあえず英語判るからいいよな! 偉そうに!」
と思われんだろうな。
でも私、英語なんて判らないから。
とか言ってると、
「いや、おまへで判らないって言われたら、我々どうなるんだよwww」
と思われんだろうな。
 
だしさ、すべての人が、自分が興味ある国の言語を、めいっぱい学習する時間があるわけでもないよな。
そのために、翻訳って存在してるんだよな。
「そういう意味で」は翻訳は有用だ。
これは、絶対に、何が起っても、否定しない。
 
でも、例えばよ。
私は、そうだな、例えば、ポーランド語なんて、ほんと、かじったていどなんですよ。
もちろんポーランド語の文章なんて、まったく判らないんですよ。
でも、ちょっとかじったなかで知ったこと、例えば、ポーランド語では、主語のカテゴリって、「人間男」と「非人間男」と「女」と「中性」って分け方すんだよ。
びっくりするでしょw
ポーランド語話者の頭のなかでは、これらのカテゴリ分けが、あるわけ。
「世界」が違うと思うんだよなw
 
こうやって、「へえええ」と思ったことは、例えば、
ポーランドにはクラークフという街があって、ポーランド第三の都市である」
ってことを日本語で知るのと、本質的に違うと思うのです。
うまく説明できないんだけどさ。
こんなていどのポーランド語かじりでも、何か、
クラクフ文化遺産に登録されている」
という知識を日本語で得るよりも、ちょっとだけ、ポーランド人の内部が「判る」ような気がする。
 
何つうのかな、例えば、恋愛するじゃないですか。
で、相手のことをもっと知りたいと思って、相手と直接お話するじゃない。
でもさ、翻訳って、こういうときに、必ず第三者の誰かを通して、
「彼女はおめえのことこう思ってるらしいで!」
とか、
「彼女は今切ない感じがしているらしいで!」
と伝達で聞いているような感じだと思うんですよ。
この伝達者が、「彼女」の言葉をどう解釈するかで、伝わってくるもの変っちゃうじゃないすか。
こんな感じ。
 
 
だったら全人類が全言語を学べってのか、ゴルア!
と言われそうだが、ってか、わしも、いったいこの、自分のなかにある、
「翻訳の限界」
というテーマが、どこに向うか見当がつかないw
まあともかく、私のなかで、「世界」へ、何だか新しくて開けていて切なくてでも愛しくてたまらない、そんなニーズが生れているのだなと、だから私が言語の話をするときは限りなく感情的なんだなということを、言いたいだけ。
……かなw?
 
よう判らんまま終了。