推敲なしでまた長文を、、、

会社近くのネカフェからですw
 
飲み会でこの時間ですw
当然わしにしては珍しい。
帰宅すると寝る時間ないのでここで仮眠取る。
と言ってもこうやってネットしちゃってるので時間ないのは同じだがw
 
今日はびっくりするような展開だったな〜。
まだ内側が全然整理できてないけど。
 
私が、職場のぐちを言いながらもとても幸せだと思うのは、職場の人たちがほんとにスーパーに善人だからだ。
あるいは、私に、どんな人のなかにも善人な部分を発見する才能があるのかも知れないが。
 
つうか、まえマイミクさんに言われて客観的に自覚したけれど(それまで自分でも気づいていたのだが、どうも苦し紛れの自覚で、あまり重要視していたポイントではなかった)、私は人間が(絶望的に)好きすぎるのだと思う。
絶望的に、と言うのは、たぶん騙されやすい、という意味もあるし、まあもっと大きく言えば、人生のいろんな局面で、私は「人間」に負けてしまう可能性がとても高いということだ。
周囲の人間たちが幸せそうな状態ならば、何かそれでもういいや、とその場で自分のすべてはあきらめてしまいそうな、そういう、まあ弱さがある。
(弱点、という意味でもある。)
 
けれど、ひとつ特徴があって、両親に対してはこれがないのだ。
両親への気持ちを、完全に麻痺させていて、彼らが幸せかどうかをはかるトリガーを、決してかけようとしない。
しかしそれは私が彼らが、彼らの年代のほとんどの日本人がそうだったように、私の基準からいけば幸せではなかったことをあまりに知りすぎているからだ。
まさに働くだけの人生であった。
ちょっと話ズレるが、また私は愛国だなんだってのが、バカらしくなってしまった。
個人の幸せ以上に重要なことなんてあるのか?
私の両親の世代、その下、までは日本社会の完全に狂った価値観の犠牲者であり、我々の世代から今の20代までは、価値観は変わっているのに、それを発揮することを許されず、全部「自己責任」と断罪され、終わっていくだろう。
「日本人」を幸せにできないならば、「日本」って何だ?
もちろん「日本人」を幸せにできる社会を「日本」が持てるようにするのが私の一番の願いではあるが、私が両親のことを考えるとき、心を全部空虚にして深呼吸をして何も感じないことにしてやりすごさないととどまることなく号泣し続けるだろうというくらい、彼らは「日本」の犠牲になった。
 
 
しかし、この私にいったい何ができるというのだろうなあ。
私は、今日上司に言われたことも、同僚に言われたことも、全部全部自覚していて、自分のなかのテーブルに並べてあって、でも、どのカードも選ぶのが怖かった。
いや、怖い。
私は本当は海外で勉学がしたいのだし、しばらくまた日本以外の世界を見たいのだし、その先で、必ず、必ず、日本が、個人が幸せになれる国に変れるように、何らかの協力をしたい。
(まあおそらく我々の世代は捨石になるであろうが。)
 
しかし、それは、ひとりっこという立場では、母親が病気を患っているという状況では、むりなのだ。
いや、これへの回答だって、私はほんとは知っている。
私が、毎日日本社会に魂殺されながら生きているよりも、苦労はするにしても、自分が本当にやりたいことをやったほうが、幸せであり、それが両親がほんとに望むことである。
が、私はたぶん、そう、ここが、最初に書いた、「人間に負ける」ということなのだ、私がそれを言い出さなければ両親に苦渋の決断をさせる必要もない。
(すでに一人暮らしを始めたことでけっこうな負担を強いているし。)
また、もし、今の会社に不満はありながらも、そこにいる「人たち」が好きで、たまに彼らが幸せそうにしているようすが見られれば、それでいいかなあ、という選択をしそうな可能性もある。
 
 
ただ、私はやるときは完全にやってしまう人間である。
ものすごい長い時間逡巡してうだうだうだうだうだうだ、毎日何かネタを見つけては文句を言って、そういう時間を過ごすことで、ある種自分と周囲(つかまあここはずばり両親だろう)を罰してからしか動けないけれど。
動くときはすさまじい決断力と行動力で実行してしまう。
話すの苦手、とか言いながら、ばりばり人を説得してしまう。
心に関する知識なんかもひそかに駆使しつつな。
 
しかし、昨日は両親と揃って久々に食事をしたのだが、私も、ほかの人たち相手だとかなり対人に問題なくなってきてるのが、両親相手だと、全然自分ではない。
まったくどう接していいのかが判らない。
相変わらず基準が「こうしないと怒るから」とか「こうしないと心配するから」というところにあって、私は彼らのまえで、ほんとにどういう姿でいたいのか?
おそらく少女のころにさかのぼるこの疑問の答えは、完全に空白である。
 
 
もういい加減骨身に染みて悟っていることだが、私はほんとおおおに、ひとりで、ほんとに誰にも本音や苦しみを打ち明けず、やってきた。
その方法があまりに悲しすぎるので、軌道修正してきたけれど、今日ふたたび、職場において、ほんとにひとりも友達を作らず、いや、友達になれるかなと思ったら嫌われたり去られたりいろいろあったけれど、大筋としては、私は自分からひとにはたらきかけることは皆無であり、それで上司とも疎遠になったし、10年同じ職場にいて、仕事中にメールを交換する相手もいない。
ほんとは、すぐ近くでみんな、「優さんは大丈夫かなあ」と思い、手を差し伸べてくれていたにもかかわらず、だ。
 
まあ、傷つくのが怖かったのであろう。
そういう意味でとてもずるかったのであろう。
みんな傷つくリスクを負って、他人にアプローチしたりしているのにな。
(だからネットでも、仲良くしてくれてる人たちのほとんどが、「あちらからやってきてくれた」人たちだ。そして、そういう人たちから大切なメールをもらうと逆に返信できなくなってしまうのは、やっぱり傷つくのを恐れていたからであった。)
 
にしても、びっくりしたなあ。
私は、職場でまったく理解されていないと思っていた。
が、ほんとにびっくりした。
私が不器用であることを、上司が判っていた。
わしの一番の親友、理解者が、
「ほんっとにどうしようもないくらい不器用だからなあ」
と言っていた、これはきっと彼女しか判ってくれないだろうと思っていたことを、職場の人たちが判っていたとはなあ。
 
 
最近、私が「こういうふうに暮したい」と具体的に理想に描いた生活を実際にしている人を知った。
こっちが勝手にブログ読んでるだけだから、知り合ったわけじゃないのだが。
その人の暮らしは、聞けば誰もが羨むだろう、という生活だが、でも、そういうことじゃなく、私は、具体的に、「こういう生活」と条件を挙げていた。
それを実践している人だ。
まあ生まれからして違うから、どこをどうやってもその人のようにはなれないかも知れないが、私はこういういわゆる「引き寄せ」みたいなことは、けっこう意味があると思っているから、ひょっとすると何らかの手段でああいう生活が実現する、これは序章なのかも知れないな。
 
 
もし読んでくださったかたがいたらありがとう。