タイトルめんどくさい

ああ、とりあえず今日一日感じていた鬱々は解決した。
↓はもちろん鬱々中に書いたものだが、ま、人生に白旗揚げるのはいいかも知れんね。
Tさんってのは、若くして特殊な才能で成功しながら勉学もどんどんやって留学までしちゃう某人のことだ。
 
そういやわしの文章というのは、たとえばmixiの「イイネ!」とか、ここでもスターとか、全然つかないな。
まあスターの場合はギブアンドテイクのようだから。
わしははてなに間借りしながら、ここのユーザが集まるコミュニティ的機能は一度も使ったことがないので。
こうして孤独を気取るから嫌われるのだろうか。
はてなの特殊機能を使わないのは、ただ単に面倒なだけ。
ケータイにしろ、わしはかなり現代のテクノロジーについていけなくなっている。
 
 
人によって「当たり前」が違うのだけれど……いや、特に結論もない。
最近言っていることや言おうとしていることのほとんどは理解されないような気がする。
実際蝙蝠のようでもあるしな。
 
しっかし先日は何でmixiのほうにへんな日記をうpしちゃったのかなあ。
こちらでこっそりに大海に流すべきだったのは明白だったのになあ。
「判って」もらえると勘違いしちゃったのだろう。
(これは、「どーせおめえらには判らねえよ」という意味ではなく、こちらが「判って、判って」という懇願をしてしまったという意味である。)
 
全然イミフだが、わしは世界を取り込んで死にたい。
自分で言ってて全然どういう意味か判らん。
ほんとはそういう願望は一切持たずに、いや、持つことは罪悪ですよね、と明白に自覚しながら会社とかに行って酒が入ると上司の悪口を言って、誰もいない家に帰ってこの年で女で今さらケコーンできるわけもないし、とか言いながら、もうひとつの仕事を、老後も視野に入れつつおこなうというような、それが(この国では)正しい姿なのだが。
 
あ、この先、わしはずううううっと日本の話をすると思います。
わしは典型的反日リベラルを経て、ネトウヨ流行発生の暁に保守を名乗っていた身なので(だから蝙蝠つってんだよ)、いい意味で言えば両方の視点を持っている。
が、実際は、ある意味サイアクなことに、両方の心情が判ってしまうので、自分のほんとの気持ちがいったいどこにあるのか、自分でもよく判らない。
 
あるいは、今言語の話をすれば、そっち方面はさらに理解してもらえないだろうことばかり考えている。
わしがずっと感じてきたことや疑問を言葉にしてくれる人が出現してしまったので、自分を守るために自覚しないでいたことをはっきりと文章として読むと、自分が言語について考え続けた先にこんなステージが待ってたのか、と鬱になる。
 
わしはずっと、年食ったら日本語を追究したいと思っていたのです。
でも日本語の本質は、知れば知るほど鬱になる要素がある。
(つか、日本社会の批判をしている意見のなかに、「日本語の構造が問題だ」と言っている人をわしは複数人知っている。)
我々が祖先の時代から作り上げてきたこの言語体系は、個人の世界を飲み込んでまでもなぜ今まで連綿と「関係性」ばかりを強化してきたのだろうか?
  
そう思えば、今まで、技術文書翻訳(日→英)で、日本語の文書に、英語にする際必要な無機質な情報(主に、単数・複数の明示)が一切ないことに苦労したり、歌詞対訳(英→日)で、英語では明示されていない「関係性」が、日本語ではどうしても必要で、それをでっちあげたりして苦悩したり、こういったことは、むだではなかったのだと思う。
わしは翻訳の才能はないと思うのだが(ほんとに)、でも、そのぶん格闘はいっぱいしてきたので、日本語の性質について、不要なほどにいろいろ考えてはきた。
 
しかし確かに、自分が何年もかけて考えてきたことを、すぐに判ってもらおうというのはどだいムリな相談ですなあ。
 
そのほかも、日本の本質は空(くう)である、って話とか、いろいろ、いろいろありますが、書いてる時間がありません。
 
あと、私は闇雲に日本ここがだめだ、あれがだめだ、うがああ、と言いたいのでなく、「なぜそうなのか」を知る以外に、「そう」のなかに潜む修正すべきものを修正できないと考えているだけです。
そのためには修正すべきものを明確にせねばならんし、それについて論じる仮説も立てねばならんし、そうやっていると、いっつも日本の批判ばっかしているように見えてしまうかも知れん。
 
ま、mixiで「愛国なんてどうでもいい」とまた言い放っちゃったからな。
あれ読んで固まった人が、いなかったとは思わん。
だから逆に今考えていることも書きたくないというのもあるな。
だって、一時期わしは愛国を煽ったからであ〜る。
 
わしは、わしの文章が、ちょこちょこと論理的に破綻しているくせにやたらと訴求力が高いことを知っているので、本来ならば内容にはものすごく気をつけねばならんのだが。
いや、待てよ、話戻るけど、イイネ!もスターもろくにつかないのだから、別にみんな賛同しているわけではないのだな。
じゃあいいや。
 
 
心の広い人ならば、わしが今大変な思考的カオスのなかにあり、いつかはこれが収束してまた人間の言葉で語りだす、と判ってくれているとは思うが、わしが今日本に対してほんとに思っていることなんて、説明できん。
日本人であることを誇れとも思っているしそんなんどーでもいいやんとも思っている。
日本の特殊性をどんどん知ってそしてそれを誇れとも思っているしそんなんどーでもいいやんとも思っている。
移民が増えたら困るとも思っているし増えても別にええやんとも思っている。
 
わしが「保守」だったときに見ていた日本は、「内なる日本」である。
現実の日本がそれから遠ざかっていくのは、悲しい。
しかし、いや、きっとそうなのだよ、私がこの社会が決して個人を幸せにしないと強くまた認識したとき、私は現実の日本に裏切られたような気がしたのであろう。
 
わしはリベラルだったころ、「内なる日本」なんつうものは持たず、常の現実の、そして自分という個人とは敵対し続ける日本の姿しか、見ていなかった。
しかし、同時に日本に死ぬほど甘えていて、甘えていたから、文句ばっかり言っていたのだよね。
 
「保守」に転向したときに生れた「内なる日本」は、ほんとに暖かいものであった。
優しいものであった。
美しいものであった。
世界にふたつとない祖国であった。
そして、現実には存在しないものであった。
現実に存在するのは、もし「内なる日本」の伝統を守りたくば、自分を殺せという国である。
こんなはずではなかった。
でも何度見直しても、現実の、現代の日本は、そういう国である。
 
嫌ってもらってもかまわん、もう信用しないと思ってもらってもかまわん、しかし、これが今、私が通っている思考的カオスの精一杯の説明だ。
 
あ、たださ、わしの知ってる人でさ、すっごく素敵に「日本イイ(・∀・)!」を実践してる人がいるのよ。
(ここも読んでくれていると思う、そう、あなたですw)
保守とかリベラルとか、↑では書いたけど、実はわしは思想をそういうふうには二分できないと考えていて。
自分の好きなものが好きで、好きだから守っていきたくて、そして、好きだからそこにかかわる人たちに幸せであってほしくて、というのを、ほんとにほんわかと実践していて、ある意味わしの理想である。
 
ってことで明日は結局何も勉強できなかったイタリア語検定だwwwwwww