報告3件

これから書くメイン記事を書いたの自体は昨日。
で、書いてあることに関して今日一度絶望をみてすぐに立ち直って、今はまた違う段階にいるんだが、書いてあることは確かに過渡期の報告としては面白いのでそのままうpします。
 
 
本文ここから↓
 
最近はほんとに(いい意味で)奇妙な感じであってただこの世にある茫洋な何かが感知できているという感じでありそれを説明することがまだできない。
 
のだが、いくつか書けることを書かうと思ふ。
 
 
そのいち。
これは感知してること、ってより、あることをやってから
「え、これってすげえ変化じゃね!?」
と思ったこと。
 
先日、
「今日はあほなことして楽しかったww」
と書いたのだが、これはそれである。
何やってたかって言うと、イタリア歌手の歌に合せて歌ってそれをICレコーダで録音した、というw
 
それだけ、なんだけど、これ、やろう、と会社で思いついてからんもうやりたくてしょうがなくて、で、やってみて、がはは、って感じで終った。
で、それだけ、なんだけど、これ、自分としてはもんのすごい変化であったのだよ。
と言うのは、録音された自分の声を聞く、なんて天地がひっくり返ってもやれないことのひとつであったので。
 
どのくらい自分の声を聞くのがいやだったかと言うと、大学のとき、LED ZEPPELIN同好会みたいなのがあってw、
「歌で参入してください」
と言われ参入したんだけど。
まあ同好会、なので、2年ほどやってたわりに演った曲は5曲ほど、しかもジミー・ペイジが2人いて、最後までジョン・ボーナムは見つからなかったというgdgdな集まりであった。
(でもわし以外の人らはほんとにLED ZEPPELINが好きだったのでたいへん満足そうであった。)
で、あるとき、演奏(らしきもの)を録音して、その後みんなでジョン・ポール・ジョーンズの部屋(超絶狭いワンルーム)に行ったとき、
「さっき録ったの聞こう」
と彼らが言い出した。
わしはまじに「どっひゃー!」であって、彼らが聞いているあいだ、ユニットバスにこもり、文字通り
「(∩゜д゜)アーアーキコエナイ」
とやっていたwwwww
(でもせっまい部屋なのでわしの努力も虚しく自分の声が聞えてきて死にたくなったのである。いや別にへんな声じゃないのは判ってんだけど。)
 
というふうでありw、で、ここ数年多言語学習をやってたときも、学習法が書いてあるサイトを見ると、たまに
「自分の(その言語での)発話を録音すると発音の欠点がよく判ります」
とあって、
「これだけは自分は絶対できない、絶対できない運命なんだよ!」
などとひとりで悲壮ぶっていたのである。
 
それが先日は
「録音したい、したい」
といてもたってもいられなくなり、録ってみて、まあいちおうぎゃーぎゃー騒ぎつつ、でもすんなり聞いてみたという、よく考えると自発的に自分の声を録って聞くなんて、すげえ変化であった。
 
(自分の声はともかく、"a"の音が、自分全然イタリア語ねいちぶと違うやん、ということが判って収穫であった。
(で、いちおー満足はしたのだが、アパートで録ってたのででかい声が出せないし、ど、どこか心ゆくまででかい声が出せる場でまた録音を、、、とか思ったり思わなかったりして、実に自分で「あほだな」と思ったが、実に楽しかったのである。)
 
 
そのに。
心もまたこの場に在る感じ、というコンセプトがやっと判ってきた件。
 
何かわしって何やってても心は別のところにある、って感じだったんだよね。
たとえば、家で仕事やってると「家事ができない」とか「勉強ができない」とか思ってて、で、勉強をしてれば「仕事がまだ終ってない」「また掃除できない」とか、そういう感じ?
 
だからいつも何かに焦っていて、それが自分の不幸感を演出してた感じもあるんだよね。
 
でも先日、あるところで
「どんな日常的な小さなことでも、そのことだけに集中してやっていると神聖な気持ちになってくる」
とか書いてあるのを読んで、なるほどなあ、と思って。
神聖、は大げさだけれども、自分の、
「今やっていることに決して正面向かず他ごとを考える」
という癖をしみじみ思い出してね。
 
基本的に逃避癖がたいへん強いんだよね。
中身がどうだろうが「現実」と名のつくものからはことごとく逃避したり、目の前にあるものからはとりあえず目をそらす、という、うん、これ、すっごい自分の大きな癖なんだよね。
前から気づいてるんだけど、何か最近、
「あ、何やっててもそうだったんだ、心がここにない、という感じだったんだ」
と気づいて、よかったなあ、と思った。
 
これは、もひとつ、
「ネットで人とのやりとりをほとんどやっていない」
も影響している。
心がここになかった、と思う。
特にやっぱりついった。
ついったで何かツイートすると、瞬時についったにいる人らに拡散するわけで、自分、よくあの状態に1年以上いたなあ、と思う。
こんなに、人にどう思われるか気になる、という人なのに、と言うか、そういう人なので、まあ確かにツイートしてるのは自分の意見なんだけれども、ツイートした瞬間に心は「ひとがどう思うか」に行ってしまって、全然、ここ、自分の側、にはなかったなあ、と思うんだよね。
(繰り返すけれどもついったがいけない、ということでなく、わしには負担が大きいメディアである、ということ。)
 
で、今、何となく、ネット上の人間社会からも離れて、特に家にいるときは自分だけの世界にいる、というのが、mixiも離れてからだから3週間くらいかな、続いて、ほんとに、自分とだけいる、という感じ、すなわち、心がここに在る感じ、に気づいたというのかなあ。
そんな感じです。
 
 
そのさん。
これはそのまま「茫洋な何かが感知できているという感じ」に関係する件。
 
海外の、ここに行きたい、あそこに行きたい、というのが強くあるのだが、しかし、実際に行く、とはどういうことか、の考えかたが変ってきた。
 
これは説明できるかな〜。
えと、
「今ここにいる」
という状態と、
「○○(行きたい地名)にいると想像する」
という状態と、
「実際に○○に行く・いる」
ということは、すべて同じことだと感じるようになった。
 
これはたとえば……
「どういう状態でも心は同じ、自分は自分」
という側面についてでもあるけれども、今の私はそういうことには関心がないんだな。
 
何つか、ひとつはすべてである、つまり、ひとつとすべては同じことである、という表現をすると今私が感じてることと近いかな〜。
 
2年ほど前に、脳内対話日記において、対話相手に
「あなたはどこにいるのか?」
と訊いて、
「どこにでもいる、どこにもいない」
と返ってきて、そして、またすぐに
「あなたはどこにいるのか?」
と同じことを訊いて、
「僕は僕のなかに」
と返ってきて、という、こういう、矛盾のようで、しかし、わしはこの、
「どこにでもいる」
「どこにもいない」
「自分は自分のなかに」
というみっつの答えは、同時に成り立つと感じている。
 
そしてこれは、
「今ここにいる」
「○○(行きたい地名)にいると想像する」
「実際に○○に行く・いる」
が同じことである、というのとよく似たパラドクスの同時成立なんだよね、わしのなかでは。
 
まあ確かに
「実際に○○に行く」
というのは、実行すると多大に得られることがある。
人生が変ってしまうこともある。
しかし、「この世のコンセプト」上ではこれは「行っていない・行くと想像する」と同じ線の上にあると感じる。
 
つか、逆に言うと、
「今ここにいる」
「○○にいると想像する」

「実際に○○に行く」
と同じレベルのことなのだと気づく、ということ、とも言える。
 
 
長くなったのでこのへんで。