わしの場合1−「考える」と「感じる」

先日書いていたカウンセラさんについて、たぶん、2004年〜2010年前半まで彼女のブログをいつも読んでいました。
で、たまにそのブログの来訪者の人で、
「気づいたらここに来なくなっていて、久々に覗いてみました」
って人たちがいて、それはいわゆる「卒業」みたいな感じなんだろうけれども、いや、わしはここはずっと読むし、と思っていたのに、わしも気づいたら読みに行かなくなっていたwww
 
しかしそれはまあ単純に「卒業」ということではなく、必要でなくなる時期があったり、他の人の意見のほうがしっくりくるようになる時期があったり、自分ひとりで整理するべき時期に入ったり、といういろいろな理由があるのだろうと思う。
 
ただ、先日も書いたが、確かに「ニューバージョンな自分」ってのには、人間、なれるのであって、それは別に人格が変ってしまうとか悩みがなくなるということでなく、基本的には性格は同じだし、人生に問題はつきものなのだけれども、それへの対処が変ったり、ま、ほんとにソフトでバグが修正されましたとか、不具合な行動を起す原因になっていた幻想的感情(事実と関係なく自分の信じ込みによって感じてしまう感情)を消去しましたとか、そういう感じである。
 
 
で、最近、またそのカウンセラさんのブログに行って、気になる過去記事を読んで、ここ何年かで自分に起ったことを総括しようという気になって、読んでいます。
 
そうすっと、彼女の書いていることと、自分がやってきたことは少しズレていることもあるかな、と思うこともあるのだが、それはどーも違うようである。
 
どういうことかと言うと、わしは
「とことん考える」
という方法で自分を何とかしようとした、と思っているのだけれども、彼女は、
「感じることが大切だ」
と書いている。
(むしろ「考えても答えは見つからない」と言っている。)
 
で、あれえ、わしは考えまくって解決したのになあ、と思い、「わしの方法は彼女の方法と違うのかな」と思ったのだが、よくよく考えてみると、わしはどーも
「考えることと感じることの境界線がない」
という頭脳の特徴を持っている、あるいは、
「考えることと感じることを区別していない」
らしい。
 
つか、考えたときにわく考えや答えに、必ず何らかの「感情」や「気持ち」を感じていて、それら後者の「感情」や「気持ち」が結果を出してきた、と言えるのではないかと。
 
 
考えて、同時に感じる、ということが、「自分を何とかする」に役立つように機能するようになったと自覚したのは、上記カウンセラさんのカウンセリングを受けているときであった。
何年前だろう?
2008年の終りくらい?
 
「自分はこれがしたい」
と思っていることがあって、それについて、カウンセラさんが
「なぜ」
と質問して掘り下げていったのだが、えと、例を書かないと判りづらいので書いてみると、たとえば、
「小説を書きたい」
として、その理由は
「文章を書くのが好きだから」
で、
「なぜ文章を書くのが好きなのか」
という質問が来て、ま、たとえば、
「書いてると楽しいから」
とか、で、さらに、
「なぜ書いていると楽しいのか」
というふうに、どんどん掘り下げるわけですね。
 
で、あるとき、
「なぜ」
への答えを言っているとき、自分の言っていることがするするするっと、上滑りに滑って、そのとき、「感覚で」はっきり判ったのです。
あ、今言った答えは嘘だな、と。
 
この経験以降、自分で日記を書くときも、書きながら、常に「感覚」をみるようになった。
自分のほんとの考えや気持ちでないことを書くと、あるいは書こうとすると、違和感を感じたり、たとえば胃がきゅっとなったり、その他身体で何かを感じることがある。
 
だから、わしはずっと「考えている」と思っていたけど、実際は徹頭徹尾「感覚」を指針にして考えたり書いたりしていたわけだな。
  
(続)