「幸せ」は「選ぶ」ものである

ついでなのでもう一本書いてしまおう。
 
 
さっきのエントリで
「幸せ、とか、選ぶ、ということについてこそ、いろいろ昨今自分のなかで気付いたことや言いたいことがあるのだけど、これこそ書くの骨折れそうだからな〜」
と書いたけれども、単純に言えば、タイトルに書いたように、
「幸せは選ぶものである」
ということである。
 
幸せになる、とか、幸せにする、とか、幸せがやってくる、とか、これらのよくある言い回しというのは実はちょっとずつ本質とずれていて、わしは
「幸せは選ぶものである」
と考えるようになりました。
(もちろんさっきのエントリで書いたカウンセラさんの影響からですが。)
 
 
たとえばある出来事があって、まさに「幸せがあっちからやってくる」というような状況が生れたとします。
でも、「幸せ」が「あっちからやってきた」ものなら、その「幸せさん」が何かの理由でそっぽを向いたらどうなるのでしょう?
もう幸せじゃなくなってしまう。
 
これは、依存とか、そういうものにつながりやすい。
「これがなかったら幸せではない」
というのは、幸せを選んでいるのでなくて、
「これがないと怖いから執着する」
という状況なんですね。
 
 
幸せがやってくる、というのは、恍惚状態にも陥りやすく、罠が多いです。
 
でも、実際「幸せがやってきた」として、そのとき一番重要なのは何だと思いますか?
 
「自分が何を選択するか」
です。
やってきた幸せ、というものに対して、どういう態度で取り組むのか。
「あっちからやってきたように見える幸せ、を、自分自身の意志で選ぶのか?」
ということです。
 
 
と、えらそーなことを書いているが、これらはこの何週間かで自分で
「今自分は状況に酔っているだけではないか」
と気付いたり、
「この状況で、自分自身の意志はいったい何を望むんだ? つか今まで自分で選択することを怠ってきたよな」
とか反省?したりしていた、そのままのことですた。
 
何を、選ぶのか。
 
ゆうべの夢は面白くて、誰かにちょっと不安に思っていることを打ち明けるのだが、相手の人が、
「答えを考えておく」
と言ったとき、わしは、
「あ、いや、いいんだよ、わしは自分の意志でこれを選んだのだから、大丈夫」
と言っていた。
 
人間は変れる。
 
 
追記
夢ってのはけっこういい指針になります。
わしの場合は、見る夢によって、自分が新しい段階に突入した、とか判るようになってきた。
ゆうべの夢はそういう手応えのある夢であった。