外国とか日本とか、またうだうだ

(以下は今日ついったでそのうち書くと言っていた言語の話ではありません。)
 
今は何を書いてもうまく書けないのだけれども、自分が長いあいだ感じてきた心細さを、あるいは感じないようにしてきた心細さや葛藤を、言葉にしていいんだという段階に来られたのは、それだけで震えるほどの感動に値する。
 
私は外国と接することや海外暮しに際して作った人脈をすべて切ってきたので、このへんに関して、誰とも共有できない状態にずっとあった。
 
豪州から帰ってきたときに、豪州に行った時点で断絶していた、「日本に暮す自分」のラインが、日本への帰国とともに再スタートするのを感じた。
そういう意味で、海外暮しが1年ちょっとだった私は、「海外暮し」人間としては1歳ちょっとである。
(この説明で意味判るといいのだが。)
 
「判って」もらう必要はないのかも知れない、というところにようやく来られたので、てけとーに書くけれど、海外で暮す自分と日本で暮す自分は断絶している。
連続ではない。
それが私の故国が日本だからなのかは知らん。
(日本の特殊性の話は今はしない。)
が、ともかく、豪州から帰ってきてから、「海外で暮す」自分は止ってきた。
けれど、「日本で暮す」自分が、もうこの国ではわしの本質では限界だ、という判断を下した瞬間が、今年のどこかの時点であって、そこから、「海外で暮す」自分に、人生をバトンタッチしたくなってきているのだと思う。
 
けれど、前も書いたけれど、これは両親が生きている限りはできないことである。
そこでどう折り合いをつけるかが問題になっている。
 
つか、本音の本音はやっぱり日本がこのままどうしようもない国になっていくのを見るのは忍びない。
ちなみに、私がいわゆる「ネ/ト/ウ/ヨ」ではなくなったのは、ネ/ト/ウ/ヨ界隈で定型的に叩かれるものは、目くらましにすぎないとどこかで判ったからだと思う。
かっちょいい言い方をすると、「ほんとの敵は別にいる」ということだが。
日本が抱える問題は、ほんとに在日朝鮮・韓国人や中国人を追い出したら解決するんですかい?
というようなことですな。
 
日本の特殊性については書かんと言ったが気が変った。
えと、今日考えていたのだが、日本社会のひっさつわざのひとつは、
「なかったことにする」
という技だ。
わしは性犯罪を糸口に日本社会について考えることが多いけれども、被害者たちが頼れる機関がほかの先進国より少なかったりするのは、結局そういった犯罪や被害者たちが、「なかったことにされてきた」からだと思う。
こればっかりでなく、あらゆる場面で、もちろん男性が被害者になるような場面でも、
「なかったことにする」
というひっさつわざが、何十年と受け継がれているような気がする。
 
日本の問題は日本人の問題で、移民を叩けばいいのではないという話も、これと無関係ではないと思う。
今は、外国や外国人をたたくことで、日本人そのものが抱えている問題を、
「なかったことにしている」
状態だと思う。
 
もちろん反論はあると思う。
外国人受け入れに反対する人たちは、
EU諸国を見よ」
と言うし、この指摘は的外れではないと思う。
でも、EU諸国だって、民族主義的な勢力が台頭するときは、自分たち自身が解決すべき何らかの問題を、
「なかったことにしている」
ときなんじゃないかと思う。
 
確かに日本のマスコミはへんなんでしょう。
わしも韓流プッシュのしすぎはぜんぜん意味が判らんし気味悪いと思う。
けれど、日本人がこの社会は生きにくいと悲鳴をあげていることなんかに比べれば、どうでもよい。
ごめん、どうでもよい。
 
何か、そういうふうに、変ってしまった、と言うか、思うようになった、と言うか。
 
ちょっと尻切れとんぼで今日は終了。