これが答えだったんだ、ずっと、ずっと、もう思い出せないくらいずっと、探し続けたのは、この答えだった。

3日連続の暑苦しい記事だが、もうこの際だからとりあえず、ある種の前哨戦として、臆面もなく記しておこう。
以下は、個人用日記に書いてたものだが、ほぼそのまま転載する。
(たまに説明用に「註」を入れてみる。)
 
 
「自分は何を伝えたいのかを、もっと考えるべきだ。つまり、どう生きるかをもっと真剣に問い続けろ」
(註・岡本太郎の言葉)
この答えがなかなか見えてこない。
ってそれほど突き詰めてまだ考えてないんだけどw
今までは明らかに
「自分はこれだけ不幸だ、辛かった」
を伝えたかったw
で、ロブ(・フリン)とはベクトルが違ったんで、作品とかにはできなかった。
 
何を掘り起こすべきか、ってことなのか?
 
私はアツくしか生きられないのだが、じゃあアツさを伝えたいのか?
もちろん人生アツくなったもん勝ちだが。
そしてもちろんこの「勝ち」は他者との争いでなく人生の定義における「勝ち」だが。
みんなにアツくなってほしい?
よく判らないな。
別にアツくなきゃいかんとも思わんし、アツくなれない人もいるだろうし、それはそれでかまわんし、また、アツくなれないのはたいがい「普通」の人たちだが……まだ、そういう人を、どっかで「勝手にしろ」と思っているところがあり。
 
生きにくさの吐露?
(小説の)登場人物を使って掘り起こすものはそれ?
 
アツさについて。
人生はもっとすばらしいもの?
いや、何つーか……結局「届くべき」人だけに届けばいいわけで、「普通」の人たちは別に……うん、正直どっちでもいいな、まだな。
この、「普通」の人たちへの恨みが解消されないとほんとの対象が見えない?
しかしなあ。
人間、基本的に愛しいと思える存在にしか行動できないんじゃないの?
 
「アツく」なれない人たち、もしくは「考えることをアウトソーシングした」、「普通」の人たち、への恨みは何だ?
彼らが自分と向き合わない様(さま)への怒り?
つか、こんなふうに怒りを感じて彼らを「ほっとけ」ないのは……そうだ、これ、逆説だ、これは彼らを「ほっとけない」ということであり、ほっとけないってことは、気にかけてるってことであり、気にかけてるってことはほんとは好きなわけだ。
自分と向き合うってのが、恐らく私が唯一知ってる苦しみの解消法で、で、それを彼らにしてほしいといらだつのは、苦しんでほしくないからだろう。
 
しかし何でそんなに「背負う」方向へいくんだろな?
(そして、私がこういう本質だからと言って別に特別いい人間もないわけだが。)
つか、「背負う」ってとこからいくと、木山(註・最近騒いでるドラマ「タンブリング」のキャラクター)が、そう、愛しくてたまらないのは、彼がそういう人だからだ。
人に訊かない。
人に相談しない。
自分だけで背負う。
それは彼が強いからではなくて、その方法しか知らないからであり、その不器用さが、そう、ある種、美しくさえあった。
「できない」ことの美しさ。
 
これは私にとってまったく新しい視点だ。
人の美しさは実はその欠けているところにあるのではないか。
「できない」ゆえの苦しみ、苛立ち、なぜこんなふうに生れたんだろうという絶望、しかし、「そのありかたこそがその人本来のありかた」であり、それと格闘するからこそ美しい、諦めないからこそ美しい、しかし最後にそれを受け容れても、その覚悟もまた美しい。
 
何が伝えたい?
 
つか、ねえ、大東タソ(註・↑のキャラクター、木山を演っている俳優。先日大きな事故に遭って入院中)、この、今回の事故って、すげえことの布石かも知れないよ。
来年とか、あなたが完治したときに、「タンブリング」の映画ができる。
(5年後設定の舞台は別として、ね。)
(註・この秋に木山主役でドラマの5年後設定の舞台が上演される予定になっているが、私が勝手に来年「タンブリング」の映画ができないかと期待しているw)
また新体操ができるくらい回復するかは判らないけど、回復してみせるんだ、そして、この映画で、またあなたが、木山が、飛べたとき――。
ひょっとするとそういうことになるかも知れないよ。
あなたはドラマの中のキャラクターの背負うものを背負っちまうほど、完璧にあの役を作り上げた。
そして、ほかの出演者も含めて、もう、ドラマの背後にあるものそのものが、感動の震源になってる。
このドラマにハマった人たちがみな
「ここまで感動したドラマはない」
と言うのは、そういう理由があるからだし、はからずも、あなたの今回の事故が、さらに今後の感動の震源を大きくした、たぶん、現時点では誰も予測できていないほど。
 
ドラマのなかで、何度も何度も立ちはだかった困難が現実にも起きて(もちろん今回の事故のことだけでなくあのドラマにかかわった人たちみんなにこれまでも大小の困難があっただろう)、それを、その現実の困難も越えてあのドラマが作品として完成した、あるいは、これから、する、その感動が、あのドラマをほかとは違ったものにしている。
 
もちろん、どんな作品だって、背後には困難を越えるための努力が隠れてる、そして、「タンブリング」のように、作る側の苦労が観る側に伝わりすぎるのも、ほんとは作品としては難ありなのかも知れない。
しかしね、私は、完成度より、心への響きをとる。
 
結局「人間同士」って、そういうものなんじゃないかと思う。
提示するのは、ただただ「ありかた」なんだよ。
ありかたと言っても、静的なものじゃない、その「ありかた」は強烈、動的なものだ。
これこそまた、岡本太郎の言った、「爆発」ということ、宇宙に、まあ私は宇宙とかよく判らないのだが、ともかく、外に、開くことだ。
 
ドラマにしろ小説にしろ、提示されたものは「作品」の体をなしている、しかし、その実態は結局「ありかた」なんだ。
だから、「私は、完成度より、心への響きをとる」と思うわけだ。
 
すべてがつながってきたぞ。
岡本太郎が、「何を伝えたいか」イコール「どう生きるか」と言ったもの、こういうところから来ているんだろう。
つまり、私が小説を書くならば、それでどういう「ありかた」を提示するかってこった。
内容や、隠された意味や、技術のレベルでなく、ただ、それまでのありかた。
どういうありかたを提示したいんだ?
妥協しないありかた?
世間のスタンダードに沿えない欠陥と共存するありかた?
世間の「こうあるべき」とどうしてもズレるありかた?
自分の本質が判らなくて苦しみ続けた歴史?
 
違う!!
――「それでいい」ってことだ。
だめでも、頭悪くても、意地悪くても、おっちょこちょいでも、腑抜けでも、怠け者でも、怒りんぼうでも、何もできなくても、全部、全部、それでいい。
 
いつも、いつでも、マシリト(註・東京のバンド)を知ってから、心に響き続けた、
「目を覚まそう/僕はこれでいいじゃない」
そして、
ダンボールに入れられて/一年中ばかにされ/でも誰かを呼ぶ声は/生きる勇気となりました」
という歌詞、こういったことだ。
私の心はいつもこのへんをうろついていて、いや、これらの歌詞を耳にするたびにこの答えの付近をうろついて、だから、これらの歌詞を耳にするたびに、落ち着かないような、切ないような、もどかしいような、しかしもう答えは見えているような、非常に混迷したような不思議な感覚を感じていた。
これが答えだったんだ、ずっと、ずっと、もう思い出せないくらいずっと、探し続けたのは、この答えだった。
 
 
ものを書こうとする人間が、強烈な自己否定を通らなければいけないことの意味。
人生の是認は、強烈な否定ののちにしか訪れないのだ。
最初から是認してたら、そりゃ現実世界では幸せに近いだろう、しかし、「書く」のならば、この、ある種むだな非常に険しい道を、通る必要があった。
私は書きたかった、これまでの苦しみを必要とするほど書きたかった、人生を愛せよと書きたかった、自分を愛せよと書きたかった、何てこった、自己否定がライフワークのようだった私が、ほんとは自分を愛せよと書きたかったのだ。
 
そのままの自分を愛せよと。