2009年記3-「ってか、「こうしか生きられない」ってことなんだがね。」

かなり久々でのぞいてくださってる方々には申し訳ないですが、やっとまた、去年3月あたりの個人用日記抜粋。
 
 
いきなりだが、うちの会社内のショップでは、自社製作の家電製品が置いてあって、そのなかにTVがある。
で、そのうちの1台が、映像及び音響レベルの高さを示すためのDVDを流してて、そのなかに、NINE INCH NAILSのライヴ映像が入っている! (音は出ないようにしてあるが。)
で、ごくたまにこのNINの映像に出くわして特大興奮してたりしてたのだが、↓この日もそういうことがあった。

090310
さっきまたNINE INCH NAILSの映像が流れてたが、、、最近あらゆる意味で敗北しそうになってたことに気づいた。
自分にとってのこういう音楽、もしくは大切なバンドの重要性ってより……うん、こういうものが自分を救ってくれることすら忘れていたというのか。
いや、どういう気持ちのときどういう音楽、ってのははっきり決ってるんだけどさ、何だろう、NINやレズナーがどうのってより……何だろうなあ、自分にはこれがあるのに、と言うか……こういうものを持つことができてる人生なのに、それでも敗北しそうになってることが、まあやっぱりショックだったと言うのか。
もちろん音楽に触れること自体は至福なのだが。
それでも負けそうになるんだなと。
そして私は戦うには、どうしても、どうしてもこういう音楽(ジャンルじゃない)が必要なんだ。
 
レズナーに関して言えば、彼にとってもまた人生は常に戦いであって。
最近は音楽業界との戦いになってたけど……戦いの結晶がまさに彼の音楽なのだが、うん、そこでやっぱり、そうなんだよ、戦ってる人が作るものにしか共感できないのだと思う、今は。
たとえその戦いがダイレクトに語られなくても、この音の背後で確実に作り手が戦ってるという事実が、どうしても私には必要なのだと思う。
特に、戦う相手が「理不尽」を象徴するものである場合に。
レズナーもまた常に理不尽と戦ってきたはずだ。
大変に孤独だったはずだ。
そしてその孤独は、彼自身が選んだもののはずだ。
(配偶者がどーのとかは関係なくね。)
ってか、「こうしか生きられない」ってことなんだがね。
 
それはやっぱり宿命のようなものであってさ。
そういう人間にとっては人生そのものが理不尽であり。
……だから私はこういう音楽が好きなのかも知れないな(ジャンルって意味で)、理不尽さへの怒りの発露、という点において。

 
んで、このころのこだわりのひとつとして、「未来」というものがあった。

090320
彼の歌は、声は、そう、未来に、「配置」、されてる。
自分でも、どういうふうに配置してるかは判らない、でも、必ず近い将来に、どういう形かは判らないが、また、彼の歌と、声と、別の形の出会いをする。

「彼」というのはイタリア人歌手ティツィアーノ・フェッロのことで、結局この、「彼の声は未来に配置されている」というのは、「数ヶ月後にイタリアまでコンサートを観に行く」ということで実現(?)した。
 
で、さらに「未来」について。

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ただ未来だけがあればいいのだ。
すべては未来に帰結するのだ。

と言っているのだが、今なら言える、これは間違っている。
正しくはこれだ↓

ただ今だけがあればいいのだ。
すべては今に帰結するのだ。

これに気づいたのは去年の終りがけだった。
 
 
このへんからティツィアーノ・フェッロについてよく言及するようになってくる。
「」(かぎかっこ)でくくられているのは彼のアルバム名、""(引用符)でくくられているのは彼の曲名。

090323
最初は……そう、「111」を買って、数日後、職場で何かいやあなことがあって、でも心の中で"Sere Nere"が流れてて、ふとそれに心のなかで耳を傾けたときに、とても安心したという、そこから、ティツィアーノの音楽は私にとっては安心なのだと。
今も、そうだ。"Ti Scattero` una Foto"が、私の心を守っていて……そう、まさに、こういうとき、彼の音楽と声は天使として私を包んでいるのだ。
 
その完結ぶりに、おとといくらいに「とてつもなく閉じた世界」という書きかたをしたのだが、うん、どうしても、閉じていることが安定なのだから、そうなる。
し、これまでこの世界には自分しかいなくて、その自分は時にロブ・フリンに姿を変えたりして、でもそれは結局自分自身だったのだが、ティツィアーノは自分自身ではない。
外部ではあるけれど、だからこそ、この世界を包んで……いや、違うな、外部ではもはやないのだろう、内側にいて、心を守り……でもこれは後退ではないんだ。
なぜなら、彼はもともと「外部」だったからだ。
 
(中略)
 
でも、これまで、こんなに音楽やひとりの人の声に「守られている」と思ったことはなかった。
やりきれない過去や現実にいる自己の、やはり憐憫として、あるいはそこからの脱却の力として、音楽に頼ってきたことはあったけど。
ただ、純粋に、ほんとに、ただ、「守られている」というのは、おそらくなかった。
どこか、自分のカタルシスのために音楽を必要としてきたのだが、ティツィアーノの音楽はそういう理由で求めてはいない。
 
そしてこれは、ある意味、自分を守ることを自分に許したということでもある。
特殊な、あるいは間違った方法で守る、ということは、潜在意識の本質として、ずっとやってきていたけど、もっと、暖かい意味での、言い訳も理屈もないところでの、つまり、「自分はこうではいけない」がベースとしてないところで自分を守るということは、今までやってきていない。
けれど今は、ネガなところも全部ひっくるめながら、ああそうだ、それさえも内包して、世界を閉じたんだ。
だからすごく、新しい段階にいる気がする。
し、新しい段階だから、また問題が出てくる。それらはすべて、今理解すべきことを自分に気づかせるために。
 
>「自分はこうではいけない」がベースとしてないところで自分を守るということは、今までやってきていない。
これは、ほんとそうなんだよな。
ティツィアーノの音楽に触れるにおいて、自分がどうだということは問題になっていない。
自分をどうしたい、ということもない。
ただ、ほんとに、すべてをそのまま「包んで」いるのだった。
そうだ、だから、すごく「閉じて」いる感じがするんだ、これまでは、外部と折り合いつけられない自分を否定しつつの、外部と適合していくための、時間だった、けれど……うん、本当に自分を守るという行為は、非常に閉じた行為なのだな。
自分がいて、ティツィアーノの音楽があって、ただ、それだけだ。

 
 
何度か書いてるが、ティツィアーノ・フェッロは子供のころいじめられていて太っちょで、歌手になったとき、イタリアの音楽雑誌か何かに、「みにくいアヒルの子が白鳥になった」とか書かれてたw
で、まあ、そういう人生の暗黒時代を乗り越えて、その後自分のやるべきことに向き合った、というところについて、思ったこと↓。
(たまに英語が出てきたりするので訳をつけた。英語で書いてる意味はない、ただ頭から出てきてそのまま書いてるだけw)

090325
いろいろあるだろうが、これだけ多くの人が彼(ティツィアーノ)の声を求めるならば、すべてを乗り越えて、あるいはすべてと戦いながらも、最終的に歌っている、というのはとても重要なことであり。
そういう形で、彼は彼の人生の責務を果しているのであり。
ロブに対しても思ってたけど、I thank him for doing what he's doing, it is such a salvation for me that he's doing what he's doing without having been beaten by his hardships.(=今ロブが音楽をやっていてくれることに感謝する。過去の苦難に打ち負かされずに音楽をやっていてくれることは私にとって大きな救いだ。)
It is the same with Tiziano Ferro; because he's overcome his hardships, he is there singing for us.(=ティツィアーノ・フェッロについても同じだ、苦難を乗り越え、今、みんなのために歌っている。)
You've got to fight to know who you really are.(=本当の自分を知るには戦わなければならない。)
Without fighting, you will never know.(=戦わずして、知ることはできない。)
Those guys are who have fought for it.(=ロブとティツィアーノは、そのために戦った人だ。)
And I've been also fighting for it.(=そして私もそのために戦ってきた。)

 
んで、このへんの思索を前哨戦に、怒涛の大長編思索が始まるw
続きは次回w