習作

僕らは食事に行ったのにふたりに見えているのは同じ白い紙なのかということばかり確認しあっていた。
それは白い紙でなくてはならなかった、赤の定義も青の定義も共有するとなると僕らには危うく、かろうじて白ならば「何もない」という説明が通りそうだったからだ。
僕も君も「何もない」と言って、でも結局互いに「何もない」の定義を共有するのに手間取って白い紙をテーブルに置くことができず、僕らはついにメニューを見ることさえかなわなかった。
僕がこんなことにこだわりだしたのは君がいつも「ふたりは同じ気持ちだ」と言っていたからだ、同じって何だ、同じって幻想だろう、僕が見ているものと君が見ているものの同一性をどうやって証明するのか?
そこからおかしくなって、僕は「気持ち」という言葉に拒否反応を起こすようになって、ある日また「私も同じ気持ち」と言う君の胸をかっさいてどこがどう同じなんだと確かめそうになって、思いとどまった僕はそれから白い紙に頼るようになった。
何も書かれていない、何も描かれていない、何色も塗られていない、何色にも染まっていない、それが白だという。
本当はそれさえも疑っているが、白を否定したらもう信じられるものがなくなりそうで、無理やり納得することにした。
「白だよね」
という言葉はそれ自体が含む意味さえゼロにされ、ただ記号として僕らのあいだのテーブルに置かれて、オブジェのように。
けれど、そこにウェイターが来て、言った。
「きれいですね、押し花ですか」
僕は凍って、
「きれいですねおしばなですか」
という音を頭のなかで確認しその音の羅列がどういう意味を成すか考えて、結論、それは白ではないということか。
ということか。
ウェイターにつめよろうとしたとき君が
「きれいでしょう」
と答えて僕の白は終わった。