人間でなくていい

時に、音楽を作る人たちは、聴き手からみたときに、人間でなくていい、と思うことがある。
いや、ほんとは今日気づいたw
 
まあ、いつもそういうわけでなく、例えば私の場合はロブ・フリン(MACHINE HEAD)は人間であってくれなくては困る。
けど、それ以外はどうなんだろうか。
「音楽」であってさえくれればいいんじゃないだろうかと。
 
そう思ったのは、今日、YouTubeで、サーセン、またこの人について言及するけどw、ティツィアーノ・フェッロがトーク番組に出ていたときの映像を見つけて。
あんまり何の話をしてるか判らなくて(当たり前だ)、まあいつかイタリア語力が伸びたら観よう、と思ってたら、最後になって、日本の話題が出てびつくりした。
一生懸命聴いてみたところ、どうも、アナウンサーが
「日本語もちょっと判ると聞いたけど?」
と訊いていたのだった。
(フェッロはイタリア語-スペイン語の同時通訳の学位(?)を持っていて、今はロンドン在住で、英語もいける、、、けど、我々「孤立した言語」を母語とする者からすれば、印欧系の言語なんてみんなそっくりじゃん(´;ω;`)ウッ…)
 
まあともかく、今の私のレベルで判ったのは、アナウンサーの質問に何かリアクションしたあと、
「僕、ティツィアーノ・フェッロは、アンチナチズムだからw!」
ってのとw、結局、「日本語は判らない」ってのと、
アナウンサー「スシは?」
フェッロ「うん」
アナウンサー「スシ、で全部」
フェッロ「そう、スシ、で全部」
恐らく知ってる日本語はスシだけだお! という結論なのだと思う。
 
最初、何でナチが出てくるんだwww、ってか、イタリアでは、日本語の勉強してる、イコールナチと思われてしまうの(´・ω・`)? と思ってたけど、どうも、その前の質問で、それ系の話をしていたんじゃないかと。
で、日本の話題が出て、続きで、三国同盟を絡めてちょっと冗談を言ったのだろうと。
 
 
でも、何か、これ観て、特に、日本の話題が出たので一生懸命聞いてしまったりして、何か、疲れて、で、ああ、この人、人間の位置におろしてくるとめんどいわ、と思って。
ああ、めんどいってのはフェッロだからめんどい、ってことでなく、何か、これまで「音楽」「声」でしかなかったものを、人間として見るのはしんどいわ、というような意味なのだが。
 
それは、ミュージシャンを特別視しましょう! とか、カリスマ視しましょう! ということでなく、音楽であってさえくれればいいんだよ、みたいな。
まあ、何だろうねえ、いい音楽や詞を作るにはやっぱ人生の経験が圧倒的にものを言うとは思うけど(特に詞、そして演奏)、それはそれとして、癒しになる音楽ならば「癒し」、エネルギーくれる音楽なら「エネルギー」、そういう意味合いであってさえくれればいい、と。
 
ってか、逆に言うと、どうも私自身が、音楽の背後にその人を見てしまう癖があったのだと思う。
フェッロにしても、以前精神的な理由で太っていたこととかは、確実に彼の音楽の肥やしになっていると思うし、それが、私にとって絶大な癒しになった理由なのだろうけど、でも、癒しならば、癒しのままでいい。
 
人間でなくていい。
人間の男でなくていい。
ただその音楽と声だけで、この閉じた世界で、言葉でなく、感情でなく、ただその音楽と声だけだからこそ、私の心は完全に守られる。