ほんとは自分を見つめていない

明日は帰宅してからイタリア語に集中したいので明日のぶんを今のうち(2/25)に書いておこう。
 
今日、ある本で確かめたいことがあって本屋に行ったのだが、目当ての本はなかった。
かわりに目についた本が、「私たちは、性犯罪被害者です-実名で告白する、『レイプ・性虐待の恐怖』と『克服する勇気』」というので。
立ち読みしてて血の気がひきかけ寒くなったけど、買った。
(本の内容自体はポジなはず。もちろんだからこそ買ったのだが。)
 
私、こういう本、一度も読んだことないんですよ。
怖くて読めなかったんですよ。
外部から入ってくる情報にどれだけ自分が心動かされやすいか判っているので、どうしても手が出なかった。
 
しかし、最近、ネットでほかの被害者の人の文章を読む機会があって、やはり参考になることが多いんですね。
そういう経験値が少し蓄積して、外部からの情報は怖くないよ、と判ったのかも知れない。
 
思えばこの件に関して私にあった「外部」はロブ・フリンだけだったけど、彼は「作品」として発表しているし、音楽という手段も手伝って、彼の存在は「外部」であり、しかし瞬時に「内部」に取り込める性質のもので、彼の存在に頼ることに、私は不安は感じなかったんすよ。
自分のなかに取り込んでる人の言葉だから。
しかし今、去年の展開なんかを思い出してみると、彼は私にとって、他人の言葉を借りれば、唯一の「細い線」であってさ。
(注:「他人の言葉」=某バンドに"細い線"という曲がある。)
 
 
最近自分の心を観察していて、いまだ自分に肯定的な気持を持つことに抵抗があると感じた。
こないだうちここでも荒れていたけど、あのあと、結局、私は両親(特に父親)に「苦しかったんだね」と判ってほしかっただけだったのだと判って。
そうなんだけど、じゃあそれを自分で自分に言えるかと言うと、言えないんすよ。
言おうと思うと逃げ出したくなる。
この、「逃げ出したくなる」はけっこう意味あるキーワードだと感じる。
自分に優しくしたり、自分を肯定したりすると何かマズイらしんだけど。
何がマズイのだろうか?
 
そうそう、あと、ここ数年すごく自覚してるけど、会社でトイレに行ったとき、鏡のなかの自分を見るのが嫌い。
ほとんど目をそらしている。
直視できない。
これが家だと平気、むしろ自分の顔が大丈夫か確認している。
でも会社という公共の場だとできない。
「逃げ出す」と似ている、精神的ブロックがあると感じる。
公共の場で自分の姿を認識することにどのようにマズイ点があるのだろうか?
 
ってかさ、手と口にものすごく断絶があるんだよな。
今こうして手でタイプしてるじゃないすか、その自分と、生身の自分が、つながらないんだよな。
例えば性犯罪被害にしても、口で誰かに言えるかと言うと、ものすごく抵抗がある。
「口で語る」ことに抵抗がある。
ある意味、まさに、私は手で書く/タイプする言葉の世界だけで生きてきたようなもので、そのなかの自分と現実の自分が乖離してるのだ。
 
こうして書かれていると、私はものすごく自分を見つめてる、みたいに思えるでしょ、でもほんとは見つめてないですよ、だから書けるんすよ。
書くときは、思考にあがってきてるものしか認識してないからね。
でもほんとに見つめるべきは思考にあがってきてない情報であってさ。
それが、「自分を肯定しようとすると逃げ出したくなる」原因であり、「公共の場で目にしたくない自分」であり、「口で声に出して語れない」情報なんだ。
 
ってか、ここは、いつものように、

自分を肯定できたらいいと思う

そのためにはどんな力が必要か?

でもほんとはそういう力を持つと困ることが起きると思い込んでるのだが、どういう困ったことが起きると思い込んでるのか?

という方法で考えるしかあるまい。
 
まあともかく、冒頭に書いた本のようなものを読もうと思っただけでもものすごい進歩だってことで。
とりあえず今日はマシヘ聴きながら寝る ノシ