「1999年以降」/「ヒュウガ・ウィルス」

予言者としてのヒトラーを考察するという、五島勉の「1999年以降」だが、読んでみた。
最終的に作者が言いたいことは、村上龍の「ヒュウガ・ウィルス」と同じだった。
ってのは、うん、けっこう大きな驚きだったかも知れない。
 
ヒトラーの予言なるものは、ノストラダムスと違ってものすごくひねって解釈しないといけない、というものではないので、もし本当にそれらのことを彼が言ったのだとすれば、それを彼がビジョンとして見たとか何かに囁かれたとかは度外視して、「予想」としては鋭いものだと思う。
 
ってか、ナチの技術が大戦後も生されて発展した、というのは予言でも何でもなく、それらを活用しようとした国の実益を考えれば、まあ、至極当然のことであり。
 
まあ、ともかく、ヒトラーの「予想」は、非常に冷徹で、人類への愛も何もない。
でも、確かに、未来を予測するときは、そのくらいの冷徹さが必要なのだろうね。
よくある「希望的観測」というのも、そこに感情が入り込まず、やはり冷徹な分析の上でのみ説得力を持つと思う。
 
で、作者の最終的結論は「希望的観測」ではあったのだけれども、最初に書いたように私は村上龍の「ヒュウガ・ウィルス」の結論を思い出し、村上氏がその結論を導き出した過程に感じた厳しさを同時に思い出し、五島氏の結論も全然希望的観測じゃねえじゃんw とおもた。
ふたりが「こうなれば生き残れる」という結論を提示してるんだけど、「でもさ、そこに辿り着くにはどうしたらいいのよw」みたいな。
 
 
ところで「ヒュウガ・ウィルス」なんだけど、あれは戦後日本への痛烈な批判なわけだけど。
でもさ、戦後の問題だけじゃない気がするのだが。
村上氏が提示した「生き残るならこうせよ」という提案はさ、こないだ書いたけど、「周囲と同じでなければいけない」を基調とする日本人の性質では、実現し得ないと思う。
 
ってのは、ちょっと「ヒュウガ〜」のネタバレになるが、キーワードは「危機感」なんだけど、日本人の危機感ってさ、「異質になる」ことに対して働くんだよね。
これちょうど最近考えてたんだけど。
農耕民族なのでみんなの協力が不可欠で、だから「みんな一緒」民族になった、というのがある程度事実とすればよ。
そういうところで「生き残る」には、異質になるのは危険だよね?
だから日本人って周囲と異質になれないと思うんだよ。
異質にならないのは防衛本能なんだ。日本人の。
 
でも、もうほんとそろそろ、考えないとね。
みんな一緒でなければいけないという価値観や性質は、為政者や何かをコントロールしたい勢力からすると、ものすごく利用しやすいんだ。
 
ああ、でも、「ヒュウガ〜」を読んだのはもう10年近く前だし、「危機感」に関する解釈が間違ってるかも知んない。
ってか、「精神的弛緩」は、「みんな同じ」からくるのだろうか?
「みんな同じ」を受け入れるとそうなるのだろうか?
 
また「ヒュウガ〜」を読んでみるか……。