同性愛-排除と疎外

ここ数日玉木宏にときめいている。
 
でも、彼が実際ゲイだった場合、に限る。
ときめくのはカッコイイからってより、鑑賞対象として、訴えてくるものがあるから。
って素直に「カッコイイから」と書けばいいのに、ほんと私は理屈っぽいなwww
 
ってわけでもない、ほんと、「人」としてでなく、「存在」として、何か感じるものがあるのだった。
 
で、何でゲイだった場合に限るかと言うと、ストレートならば、想像がつくから。
ああ、女が好きな男なんだね、フーン。
ってか、私は本質的に同性愛の世界に興味はないんだけど、ひとつの新しい世界ではある。
例えば超絶美形で女が好きなんです、なんてのは、昨日話題に出した某BUCK-TICKの歌ってる人を第一サンプルとしてずうううっと自分の感知する世界の範疇にあったので、「もう判ったから」みたいな感じもあるw
 
けどすげえキレイで男が好きって、これまで別に興味なかったけど、そういう「存在」として考えると、何か新しいジャンルだ。
ってか、そういう生き物がいてくれていい。
それは、彼らが女を性的対象として見ないことの、ある種の清廉さ(ものすごく間違った表現だとは判ってるが、性的対象としてのみ最小化されることの多い女側からすると、そう見ない視点は清廉なのだ)に何かを見ているから、ではなく、何なんだろうか。
 
って言うか、単純に私の世界が変ったのだと思う(汗
ここ数年恋という概念を捨て去ってしまったのだが、去年から、人々に対してそれまで持たなかった種類の気持ちを持つようになった。
それは相手の性別関係なく、またそれは時にひとりの人間でなかったり(つまりバンド)、あるいはそれをサポートする人たちだったり、そして別に相手と密に接する必要もないし、ええと、これはやっぱり一連のMACHINE HEAD月間で学んだのだと思う、私は性格上マメに相手の動向をチェックするってことができないけど、でも、私は真剣に愛しているのですよ、あのバンドを。
 
それとそれにかかわることから体験したこととか……うん、何か、パラダイムシフトだったんだろうな。
自分が自分の意志で達成したパラダイムシフトだけでなく、別のシフトも起ってた。
 
世界が違って見えているのか?
そうなのだろう、きっと。
よく自覚できないのだけど。
変った、変った、と言って、私は変わらず人見知りだしうじうじしてるんだけど、はっきり自分のなかに自覚できてる変化と……それに伴う視界の変化と。
 
そっか、これは視界の変化なのか。
玉木宏(ゲイだった場合)の先に見える非常に長い尺のある世界は、たぶん前だったら見えなかったのだろうな。
 
一体今日書いていることは何なのかw?
(↑自分でもよく判ってない。)
 
何か、同性愛の世界に関して、「それも人間と人間のつながりで……」みたいな論の広げかたをする気にはならない。
そこで女性が排除されてるとか、だからこそいいんだとか、そういうことも、何か違う。
前に女性がなぜ男性の同性愛ものにのめり込むのかの考察をちょっとしたけど、私は結局、もしそれを題材にするのだとしたら、排除のほうを書くだろう。
男性側を描くにしても、やっぱり疎外を書くだろう。
なぜなら、排除や疎外の先にこそ、自分は何者なのかという問いと答えがあるからだ、と思う。
 
意味不明なのでとりあえず風呂入ってくるわw
あと、もし玉木さん本人がゲイだと噂されるのは不快だ! と思っている人だったらごめんなさいと書いておこう、断定したわけじゃないので。
あくまでも、「そうだったらその先に見える世界があってそれに自分が刺激されている」という意味なので。
 
でわ。