きっと無条件で幸せだ

"Galaxy"を聴いた。
歌詞で(´;ω;`)ウッ…

君はもう飛べる 何処だって行ける
 
さあ夜明けだ さあ羽ばたけ さあゆっくり ほら

公の場で言い切るのもイタイが、まじに自分にとって(心のうえでの)門出のタイミングで。
 
 
思えば、去年の11/29、ファンクラブ限定ライヴ@名古屋に行くまで、新作に何を期待していいのか、まったく白紙、ってより、前作が好きじゃなかったので正直どうせ今回も今井くん趣味全開なんだろ、と苛立ってた。
事前に発表されていたシングル2曲の題名も、"Heaven"と"Galaxy"で、正直、「ああ('A`)」と思ってた。
 
でも、ライヴの前にシングルとアルバムのメイキング映像を流してくれて、そのとき気づいた"Heaven"の歌詞、「桜咲く」で、前も書いたけどあっちゃんに対して「そう言えるようになったのか!」ともうそれだけで(´;ω;`)ウッ…となって、そこから。
 
自分の精神状況変化もリンクして、今、年が変って1/21、シングル2曲の題名そのままに、自分は自分のなかで高いところにいるのだった。
高いってのは偉さでも何でもない、ただ、そう、もう「あそこ」にはいないのだという……とりあえずB-Tを好きになった19年前にはすでに住んでいたあの痛みと嵐の世界である「あそこ」にはいないのだと。
B-Tの2曲のシングルと共に。
 
 
そしてまた、あいだ1年くらいはほへ〜んとしてたときもあるけど、ひとつのものを19年間好きでい続けるというのはそれだけで無条件で幸せなのだろう。
私は私だから、B-Tじゃなくても同じくらい好きになる何かを見つけていただろうけれど、それがB-Tで、よかったのだと思う。
 
 
先日、「誰かの痛みの記録はいつかほかの人の癒し(光)となる」と書いて、私にとってそうなってくれたのは、あのときはロブ・フリンと「あと何人か」そういう人がいる、と書いたが、ほんとはロブとあっちゃんだけだ。
これはそのうち書こうと思ってたけど。
特に2004〜2006年はあっちゃんの書き残した言葉だけをたどって生きていた。
しかし、その前から――さっきも書いたけどB-Tのファンになった19年前(季節もまったく今の時期だった)にはすでに住んでいたよくない世界から抜け出る旅、ほんとに抜け出ようとし始めたのは2000年秋だったが、ともかくその旅において常にB-Tの音は鳴っていたし、だからこそ、もう一度引用するけど、

君はもう飛べる 何処だって行ける
 
さあ夜明けだ さあ羽ばたけ さあゆっくり ほら

という言葉は、19年の重みをずっしり伴って響くのだった。
しかし、それは重みであって悲壮なものではなく、ただ今の私にはその重さがはっきりと量れるということ、その量った重さがこの歌詞に何ものにもかえがたい実質性(solidity)を与えるということだ。
その実質性はこれまで自分が歩んだ時間に匹敵するような。釣りあうような。
そのくらいの意味をもって、この歌詞は私の心を震わせる。
 
 
最近思うけど、私は勝手にあっちゃんを同志みたいにみている。
私は彼のかつての苦しみの質が判る、とは言わないが、どこかに必要以上に苦しむ魂が在るという、極端に言うと、そういう認識においての「同志」なんだと思う。
 
平穏に辿り着いてもまだ歌うことはある。
私は今ともかく自分を泳がせることに専念してて、今後がまったく予想がつかないんだけど、あっちゃんの書くものが、少し何か方向くらいは教えてくれる気がする。
凪いだ魂が何を語るのか。
 
 
とか言って来月出るアルバムが全然アレだったらどうしよwww
(このへんはもう今井大魔神に拝み倒すしかあるまい。もう完成してるから遅いけど。)