鬱っぽさとの融合

先日も書きましたが、年末から非常に精神状態がよく。
で、ほんと、どんな場面でもですね、ほんの数週間前まで心に常駐していた、そうだな、色々形容のしかたはあると思うけど、自分が自覚していて一番いやだったのは、「やるべきこともやりたいこともやらないあるいはやれない」という状態を作り出す何かで、一言で言うと「無気力」かな、うんと、心の底から私の(顕在)意識に腕を伸ばしてポジな心を押さえつけようとするものが奥底にあったのだが、それが消えて。
 
でも、私は、てか女性は周期的に精神状態が変るので、よくない精神状態になりがちな時期に入った(女性なら判るよね、PMS期だ)今、自分の心を観察している。
 
というわけで観察していたところ、おとといくらいから何かから逃げている状態になってきていて、ここが放置だったのもそのせいだったり、まあ実際外に出かけたりはしてたんだけど、今日の夕方まで逃げたい心がかなり重くなってて体も重かったし。
 
しかしそこで、やはり変っていることを実感しているのである。
まず、昔はそういう精神状態だと自分を責めたり自分の身体的属性を責めたりしていたけど、そういう方向に行きそうになると
「待て。動きたくないときは動かなくていい。そしてまた、心が重い原因もだいたい判ってるよね、○と×をまずやれば懸念は取り除ける、でも今はそれをどうしてもやりたくないんだし、じゃあやらなくていいじゃん、だからとりあえずできること、あ、掃除はできるんだ、じゃあやろう。――掃除後――イタリア語やりたいけど全然頭に入らないね、読書しようか、うへ、なにこの本、読みたくない(PMS期は感覚が鋭敏になっているので「ぎょっ」として受けつけないものが増える)、イタリア語の文法書でも読もう――熟睡www――音楽聴こう――再び熟睡www――積ん読になってる他の本を見てみるか、ぱらぱら……すげえ笑える一文がある、わはは……あ、懸念事項、とりあえず片づけられる気がする」
 
これで鬱い感じを脱出、今にいたる。
ということで今思うのは、鬱っぽさの肯定が重要だということ。
今日はたまたま掃除したりできたけど、それもできないと言うなら、ってか、よくほんものの鬱の人が、ひどいと寝てることしかできないと言うけど、あの感覚は判るですよ、実際そうなったことは私ないんだけど、心と体の重さが合致したときは、確かに動くのが困難なことが想像される、しかし、そうなってもその状態を肯定するのが非常にいいなと。
エントリタイトルは「融合」としたけど、まあ作業としては「肯定」、で、肯定したあとに「融合」が来る感じ。
融合状態について思うのは、気がすむまで融合すると自然と乖離したくなるらすい、ということですた。
 
 
ところで、鬱くなった原因はホルモンバランスだけでなく、先日の、「アドルフに告ぐ」を一気読みしたのが、そうとう疲れたのではないかとも推察している。
本来、まあ1日1冊としても5日かかるものを3時間で終らせたわけだから、その3時間の脳の酷使度はすさまじかったと思われるw しかもここ数年ずえんずえん漫画読まなくなってたしね。
ごめん、脳w