心の底の抵抗を探る

今から思索をしてみるので、どういう結論になるか判らないけど、書いてみます。
 
色々心を探ると、私は、「できると困る」らすいのです、「できないと言っていたい」というのが、根底で叶えている願いらすいのです、さて、なぜ「できると困る」のだろう? なぜ「できないと言っていたい」のだろう?
 
ええと、自分の力が出せると、「できないと言えなくなる」から困るらすいんだけど、なぜ?
うんと、「だって、できると言ったらやらなきゃいけなくなるじゃん」と思っているらすい、ってことは、ほんとはやりたくないんだよね、なぜやりたくないのか?
「やらなかったら成功もないけど失敗がないので平穏」ってそう、春くらいにも発見したんだけど、私は平穏をものすごく望んでいるらしく、だから、平穏を乱すものにものすごく怒りを感じる。
まあそれはいいとして、平穏が一番大事なんだよね、私はね、どーでもいいけどこういう思索をMINISTRY(かなりうるせーアルバム)聴きながらやってるところに風流さを感じるんだがw、それはともかくとして、ええと、そうそう、平穏なんですよ、それが消えると困るので、何にも挑戦したくないんだね、挑戦したくないから「できない」と思い込みたいんだね。
 
何にも心乱されたくない、と。心乱されるのが怖いと。
ええと、そうすると、心乱されても実は何も起きない、と潜在意識を書き換えるべきか、あるいは、心乱されても何も起きない、という考えのページを今の私の潜在意識は決して見ようとしないので、ちょっとむりやりにでも、「大丈夫だ」というデータを蓄積するか、っていうような方法があるかな。
 
ところで、なるほど、心乱されると、平穏じゃなくなると、世界の終わり、みたいな感じなんだね、そこまで恐れるということは、平穏が実に私にとって大切だということだと思うんだが、それが核かなあ。心の平静が保たれると幸せ、と言うより、ああ、判った、心の平静が保たれて、やっとやりたいことに注力できるわけだね?
 
ってのは最初のうち書いてたことと矛盾してるようだが(こういうことが頻繁にあるので意識改革に取り組むとその過程でわけが判らなくなるし人に説明しにくい)、ええと、だから、心の平静を保てるようになる、あるいは、平静が乱れても大丈夫だと意識を変える、ことで、力を出せるようになる、ということだよね。
そしてまた、心の平静が自分にとってとても大切なんだね。ということをいつも判ってあげながら、でも大丈夫だと自分に言ってあげたりすることで、自分のなかで、いつも「だってできないもん、ってかできると困るもん」と怒っていた子供はちょっと納得するかな?
 
 
今夜はだいたいこんなとこかな。
ええと、上記みたいなことは、普段は自分用の日記に書いてます。てか、こんな感じで書くことで答えを見つけたりすることがたまにある。
 
上記を考えようと思ったのは、昨日、やっと、なぜ自分は語学を異常にやりたがるのか? を探って、ある答えに行き着いて、んで、色々整理して、じゃあ何カ国語かじって、重要な言語はこれで、とか決めて、じゃあ来年はこれとこれ、毎日のレベルでは何曜日と何曜日は○○語、とか細かいとこまでビジョンを落とし込んで、とりあえず、これでいいかな、とか思っていたんだけど、それを考えてるあいだじゅう、そしてまたとりあえず色々決定してからも、両足にすさまじい力が入っていることに気づき、違和感を覚えたので。
 
私は基本的に常に体に力が入っている人で、そのうちそのへんも解決に取り組んでみたいなあなんて思っていたんだけど、今日の両足の力の入り方はハンパじゃなかったw
夕方出歩いたけど、途中から歩くのも困難になるほど足がかちこちに、重くなったんで、「こりゃどう考えても今自分がやろうとしてることを根底の自分はやりたくないらしいぞwww」と思ってですね。
 
で、考えた結果、やろうとしていることをやると平穏乱されるかも知れない、と抵抗していたらすい。
ので、平穏乱されるのがいやなんだね。と常に自分のことを判ってあげながら、しかし、「大丈夫だ」というデータも書き込む、と。
 
ってとこで様子を見ます。