適応できないという生き方

適応できないという生き方があってもいい、と昨日思って、よく考えたら以前、同じようなことを書いたなと思い出した。
社会で用意されているありかた(例えば女/男らしくなど)に適応できなくてもいいよな、というようなこと。
しかし、昨日思ったのは、さらによく考えると、ちょっと意味が違う。
 
昨日思ったのは、「感じ方」についてで、世間では「そのくらいは受け入れないといけない」という事柄に関して、「いや、私的にはそこは傷つきポイントなので」と、堂々と傷つくというような、そういうことだ。
  
こういうことを考えていて思い出すのは、ALICE IN CHAINSの故レイン・ステイリーだ。
彼は完全に、人間社会の横柄さやいい加減さや傍若無人さや不誠実さに適応できず自らフェイドアウトしたタイプの人だと思う。
 
ともかく、これから私は、堂々と傷つくことにした。
「そんなことくらいでうじうじしちゃだめだよ」
という言葉は、励ましにも、相手の否定にもなる。
つか、順番があるんだけど、そこが軽視されがちな気がする。
「傷つくことはおk!」というところをきちんと通ったうえで、「でも、そっからがんばろうね」という、この順番じゃないと、傷つきやすさはいつまでも欠点でしかない。
 
でも、ほんとはこういうのが重要なのは、他者が他者にアドバイスする、という場面ではなく、自分が自分にどういう言葉をかけるのか、という場面だと思う。
私は自己否定の鬼だったからw、昨日も、「なんでこれしきのことで不快に思ってしまうのだろう」と自分責めモードに入りかけたのだが、しかし、不快と思って何が悪い、とすぐに思えて、世間のスタンダードがどうであろうが、これは私にとっては不快、と堂々とすることにいたした。
 
だから、堂々と、世間のスタンダードから外れた感じ方をキープしたいと思います。
 
とは言え、「堂々とできない」ということも含め繊細さなのでは、という意見もあるだろうとは思う。
けれど、先日も書いたように、弱さと強さは共存するんですよ。
弱さと強さは正反対のものではあるが、互いに打ち消しあうものではなく、むしろ補完関係にあると思う。
自画自賛するけどw、こないだ書いた、「弱さと強さは親友どうしのようだ」という表現はけっこう気に入っているw
 
 
そしてこの文章は、レイン・ステイリーに捧げたい。
私はよく、「何でこんなふうに生れてきてしまったんだろう」と思うとき、彼のことを思い出していた。
今ならよく判る。彼は"Hate to feel(感じたくない)"と歌いながら、自分を責めていたのだと思う。
彼が亡くなったとき、生きること自体苦痛だったのだから、苦痛が終ってよかった、ということを書いた記憶があるが、今はただ、彼の繊細さを全肯定したい、彼の感じていた苦痛さえも全肯定したい。
 
何か昨日から"Beautiful Mourning"という曲の歌詞が頭で繰り返されるし、ちょっと今日書いたことと関係ある気がするので、しめとして書いておく。

This lifetime in sorrow
この生涯 悲しみにまみれ
God let the angels die
神よ天使たちを逝かせ給え
This is our last goodbye
これが最後の別れ
In love and death we cry
愛と死に 人は涙を流す

「またか!」と言われそうなので誰の歌詞かはググってくださいw