生きていく美しさ

先日「くだらない話」というエントリを書いたが、要約すると、

ヨーロッパ人の男に生まれたかったお(´・ω・`)
でもきっとそれは日本に疲れただけだお(´・ω・`)
日本語も面倒だお(´・ω・`)
敬語とかが特に面倒だお(´・ω・`)
でもドイツ人が敬語を羨ましがってたらしいお(・ω・)
細やかな敬意を表すのに便利らしいお(`・ω・´)
でも実際に敬語を駆使するのはめんどいお(´・ω・`)
「敬語ウラヤマシス」と言ってるだけのほうが幸せだお(´・ω・`)
だから私がヨーロッパ男になりたいおと思っているのも幸せだお(´・ω・`)
憧れているうちが幸せなんだお(´・ω・`)

という内容だった。
 
確かに、そう思っている。
が、よく考えると、私は最近、その先のところについて考えているのだった。
↑エントリにコメントいただいて、レスをするうち、よく判ってきたのだけど。
 
私が今思っているのは、確かに、「憧れているうちが幸せ」なのは真理なのだけれども、人生の美しさは、それらを越えたところにあるということだ。
夢に乗り出して、叶えて、あるいは憧れに近づいて、たぶん人はズタボロになることのほうが多いんじゃないかと思うけれど、でも、そのときに、どれだけ傷を負っていようが立ち上がる、そこに、生きることのほんとの美しさがあるような気がしてならない。
つか、そこまで行って、やっと、腹の底から、「生きた」ということになるのかな、と。
傷ついて、倒されて、痛みに悶えて、でもそこから身を起すときの輝かしさは、震えるような感動をもたらす。
 
この一ヶ月は、私の人生において、めまいがするほどの重要性を持っていた。
ここにも大量の文章を書いたけれど、それはすなわち、「立ち上がる」記録だ。
 
今でも、そしてこれからも、日常の様々な出来事で、ネガな自分が台頭することもある。
けれど、こういったネガティブさを根底から、何かこうちゃぶ台ひっくり返すみたいにひっくり返して、「そんなネガな姿はてめえの本来の姿じゃねえだろうが、ごるあ!」と愛情もって啖呵きる別の自分が今はいる。
 
つい最近まで、この啖呵きる自分は自分の姿でなく、別の人物の姿を借りて私のなかに住んでいたのだが、ああ、今確認できたよ、これはほんとは私自身だ。
これまで自分にあるはずないと思っていたこの強さは、これまでずっと他人のなかにしか見出せなかった強さは、今ここにある。
 
かと言って、弱さが消えたわけでもないだろう。
弱点は変わらずあるだろうし。
でも、強さが確認できたので。
この強さは強いだけでなく慈愛にも満ちているはずなので。
 
やっと、「弱さを慈しむ」という、今年3月、MACHINE HEADのライヴレポのときに書いたことが、どういうことか、判った。
弱さと強さは共存する。
親友同士のようにさえ見える。
 
そうだ、これは「立ち上がる」記録だ。
私が↑で
「傷ついて、倒されて、痛みに悶えて、でもそこから身を起すときの輝かしさは、震えるような感動をもたらす」
と書いたのは、自分が経験したからだ、と今は言える。
いや、経験したってより、まだ只中だけれども。
 
 
ところで、二週間ほど前に、親しい人へのアンサー的意味もこめて書いた文章がひとつあるので、近々うpします。
それを読めば、私が「何から」立ち上がったのか、判ると思います。
今日のエントリとは時系列が逆になっちまいましたが、ま、多分明日? うpしようかな?
 
ところで、↑で書いた「弱さを慈しむ」について書いたエントリはこちら。

今さら3/18について