くだらない話

ほんとにくだらない話なんだけど。
生まれ変わったらヨーロッパ人の男になりたい。(アメリカではない。)
さらさらの髪をのばして弦楽器をやりたい。
でも黒髪だったら髪は伸ばさない、暑苦しいので。
ってか黒髪を伸ばすのは今すでにやってるので興味がわかないw
ってかやっぱヨーロッパ人ってかっこいいよ、情けないこと言ってるのは判ってるんだが、何かこう、アジアとヨーロッパを公平に見ようとする行為には、頭のなかで理論を構築したり、西欧人への「ふん」という感情を確認したり、文化に優劣はないとかひとつがんばって心を大人にしたり、色々なことが伴っている気がする。
そういう、伴わせなければならん色んなことを忘れてぼーっとしていると、ヨーロッパも地獄がいっぱいあるよってのは判っていながらも、ただあの薄い髪の色に憧れたり、色素の薄さに憧れたり、日本語じゃない言語で生きられる自由さに憧れたり、ああ、結局早い話、また日本に疲れてきたってことなんだな。
そこにCARCASS攻撃だ。
そう、CARCASSのDVD観てて、全員きれいで(ジェフ・ウォーカーも昔はきれいだった)、色素の薄いさらさらの長い髪をゆらして、ああ、私の人生にもそういう時間があったなら。
とわけ判らん憧れを抱いて、何か微妙な気持ちだ。
いや、基本的に、何か幸せなんだけど。
心も今は20年くらい前のリバプールに行っちゃってて。
 
話戻るけど日本語について。
実際は、日本語はとおっても自由な言語なのだが、自由すぎるがゆえに、社会規範に合わせるために細かくルールがあって、だから、性別により使う言葉が限定されすぎたりして、逆に不自由を感じる。あるいは敬語の存在により、人と親しくなりにくい。
もちろん非常に細やかな敬意を示すためには敬語というのは素晴らしいものだとは思うし、昔どっかで、ドイツ人か何かが、相手に細かに敬意を示すことのできる日本語の敬語というシステムを羨ましがったという話を読んだことがあるが、しかし、「そういうのがあっていいな(´・ω・`) 」と憧れているのと、実際それを駆使するのが当たり前とされて生きるのと、どっちが幸せかと言ったら、「そういうのがあっていいな(´・ω・`) 」と憧れているほうが幸せだ。
 
あ、だから、私の、「ヨーロッパ人の男に生まれたかったお(´・ω・`) 」と憧れている現状は幸せだってことだ。
実情が判らないものしか、心のオアシスにはならないのだろう。
ああ、いいオチが見つかってよかった。