目を覚まそう/僕はこれでいいじゃない

エントリタイトルはマシリトというバンドの曲の歌詞。
ちなみに、昼に書いたエントリは消しました。
こっちが本編だ! ってことで。
思うまま、それが傷口に塩を塗ることだろうが、ってか、今はそういう時期なんだよ、みなまで書いてしまえ! ということでね。
(超絶長いから数日に分けて読んでくださいw)
 
1.
私が性同一性障害を疑ったのは、思春期に身体的に男性になることを望んだ、というのもあるが、もうひとつ、これは私の最大の秘密のひとつだな。
私は、幼稚園のころから、自分のなかに男性をひとり住まわせている。
幼稚園のころから、それは同世代の男の子ではなくて、成人した男性だった。
名前をつけたりして、しかしそれが親に判らないように、暗号みたいな文字を作って、自分だけの秘密みたいに、らくがきちょうに彼の名前を自分で作った文字で書いていたりしていた。
 
この人は、私の理想の男性像でもない、自分が男だったらこうだったという理想像でもない、ただ、自分のなかにそういう人がいて、それも自分、と思っている、というような感じ。
 
つか、正直に言いましょう! 今も男性は住んでいる!
自分が成人したあとくらいから、幼稚園時代の人から別の人に変って、ここ数年でまた別の人に変ってるんだけどw、ひとり住んでいる。
んで、寝るまえに、彼の生活を「生きる」。
これが私の「妄想癖」なんだけど、彼を自分として、彼の生活を頭のなかで「生きて」、眠りに入る、ということを、結局幼稚園のころから続けているんだよね。
 
 
2.
名前を出してすみませんが、以前、じゅらさんがふとおっしゃっていた一言で、私はひとつの答えに思い当たったのだが、私のなかの、「男ってこういうところがムカつく!」のでどころは父親だった。
彼は女をなめている。
子供のころからおばさん連中にものすごくかわいがられてきたらしく、それが女をなめることとつながっていると思う。
女性の政治家とかがテレビに出ると、怒る。
「女が!」とか言って。
しかもものすごく小さい、髪形がどーのとか、そういうところを見つけて、それが嫌いだとか言うんだが、私からすると、難癖つけんじゃねえよ、女だから気にいらんのだろう? ん? と。
私が、「男は女を女としてしか見られない、人間として見ない」ということで激怒するのは、多分父親のせいだ。
彼は私を「娘」としてはかわいがることができたが、「子供」としては扱えなかったのだと思う。
しかし私は、「人」として扱われることに飢えていた!
 
私は幼少のころ、人形は見向きもせずミニカーばっかりで遊んでいて、幼稚園時代はカンフー映画通だった。
そしてまた、少女漫画は性にあわねえ、って少年漫画ばっかり読んで、っていう子供だったんですよ。
(中学くらいから少女漫画も好きになった。)
しかし、同時に、普通に女の子っぽいところもあったと思うんだが、結局、どっちでもなかったのだろう。
ってか、誰のなかにも両性が住んでいる、というのが私が頭で出す結論なんだけど、家庭ではそれは許されず、私は外見のせいもあって「おじょうさん」でいないといけなかった。
七五三のときの写真、かわい〜く着飾った私はものすごい怒った顔をしていて、母親いわく、実際私は超機嫌が悪かったらしいんだが、私の両親の、性別に関するかなり硬直した価値観、まあ彼らの世代では仕方ないのかも知れないが、その押しつけは、本質的には何か男みたいな女みたいな私には、そうとう窮屈だったのでしょう。
普段の生活において100%「女の子」でいないといけないので、本質ではそこまで女性的でない私は、夜寝る前に頭のなかで「男の人生」を生きることでバランスを取っていたのだと思う。
 
この、妄想に関しては、そうとう恥ずかしいことだと思ってきて、まっさかここで堂々と書く日が来るとは思ってもみなかったんだが、あれで自分を守ってきた、と思えば恥ずかしいことでもないと今は思えている。
 
 
3.
前もコメントのほうに書いたんだけど、例えばこういう妄想癖とか、女なのがいやだとか、男になるのがスジだとか、色んなことに関して、私は、自分がだめな人間なのでこう思うのだと自分を責め続けていたのですよ、ものごころついてからずっと。
ほかの女の子たちは、女であることにもっとちゃんと耐えていて、我慢していて、我慢できない私はだめな子だと、そうなんだよな、だめな子、が私の設定なんですよ、自分でいてはいけないと思ってたんだよ。
はっきり言うとそれは親のせいだけれども、親はものすごく大事にしてくれたし、愛してくれたし、素晴らしい資質を授けてくれたし、ものすごく感謝しているんだけど、彼らの、何かの恐れ、こうでないといけない! という強い強迫観念、それを私は「取り込んで」しまったのだと思う、それが、35年間に及ぶ自己否定だ。
そしてまた、ここにパラドクスが存在する。
「自分の全否定」は、「自分の性別の否定」でもあった。
つまり私は、

  • 本質は中性的(あるていど誰でもそうだと思う)
  • 生物学的には女
  • 自己否定に性別の否定も含めた
  • から女でいてはいけないし、女なのがいやだと思うのもいけないし、
  • ってかおいおい、こんなカオスでよく生きてきたな、自分www

 
これらのカオスと歪みを救うには、男として生きる妄想が必要だった。
さらに、これはどうしてもここに書けない、また、親にも絶対言えない事件が5歳のときにあり(Five!)、それも背負いながらの人生でした、これは親が死んだら言いますよ、ともかく、そのなかで、これらはどう考えても私は悪くない、ってか、幼稚園児が抱えられる問題ではない、だから先日中、私のなかの子供の心は満身創痍で、彼女を葬る、と書いたのだ。
ってか、いったいあの小さな子は、なぜすべて、すべて、すべて、ひとりで抱えようとしたのでしょうかね?
そうしながら、すべて、すべて、すべての悪いことは、自分が悪い人間のせいで起ると思っていたらしいんだよね、って、今こう書きながら私は平気なんです、ってことは、もう大丈夫なのかな?
 
いや、大丈夫かどうかに今は興味はない。
そしてまた、性別に関して、ここまで書いて、結論が出たかに見えて、まだまだパラダイムシフトが起ったばかりだと感じているにすぎない。
 
 
4.
ひとつ朗報を書いておくと、私のなかの男性だけれど、初代と二代目は、けっこうかわいそうなんですよ。
しかし、今の人、三代目は、最初こそ、やっぱり破滅的な人生だったんだけど、最近、どういう心境の変化か家庭を持ちたいとか言い出して、しかも、とても幸せそうなんですよ、私もびっくりしたんだが。
これは朗報に間違いない。
私自身にとっても。
 
 
5.
たぶん、ここまで書くのは自爆行為だと思うwww
しかし、私は、ここから始めるのだ。
私にはやりたいことがあるので。
 
 
追記
すみません、メールいただいている方々、近日中におへんじしますので!
メールいただいてとても嬉しかったです。そうとうヒントになりました。