神様は結局残酷→まあ全てどうでもいいじゃん

昨日、ひょんなことから同僚とキリスト教の話になったが、よく言われる、
「旧約の神様は優しくなくて、新約の神様は優しい」
という話をしたら、
「いや、結局おんなじなんじゃないかな、神様ってものがいるとすれば、どっちにしろ残酷なものなんだと思う」
という意見が返ってきますた。
 
まあ、確かに、そうなのかも知れないの。
何か最近、努力なんて全く何の意味もなさないんじゃないかなと思い始めている。
これはネガな意味でもポジな意味でも。
 
で、またこれが、今日久々にみた、OUTRAGE丹下さんの書いてたことにも通じて。

悟りを開くとは。
悟りを開かなくてよい事。
探してる事は。
見つからなくても良い事。
 
とか色いろ考えてみた。
http://blog.livedoor.jp/outrage/archives/51479388.html

自分も、こういうところにいきつつある。
↑であんなこと書いたが、努力は、多分続けるのだけれども、やめてもいいと思っている。
つまり、そういう感じなんだよな。
努力しなければいけない!!!1!!1!!!!
というような気合がないところで、ま、努力したかったらするし、したくなかったらしない、で過ぎていく。
 
まだ、↑で書いたような、「どーせ何も実らないでしょ」といういじけ心も感じている段階だし、多分これからもいじけるのだろうけれども、同じ事柄のネガとポジをいったりきたりして、すべてにおいて「まあ、いいじゃん」と思うときもあるような、そういう風になれたら、と言うか、ま、なれなくてもよい。