なぜ「わたし」が「偉人のぼけ」に腹を立てるのか

先日、こちら町田康の、

まったくもって、偉人のぼけはなにをさらすのであろうか

という文章が頭で繰り返されるので思わず口に出してしまう、というようなことを書いたが、突然この一文だけ引っ張り出しても彼の面白さはよく判らんと思うので、なぜこの文章が入っている「夫婦茶碗」という話で語り部の「わたし」が偉人のぼけを呪うようになったのか、引用しておこう。
 
「わたし」は仕事がなく、日々ぶらぶらしているのであるが、あるとき奥さんに「お金がありませんのでどうにかしてください」と迫られ、何とか仕事を創出しようと試みるのであるが、失敗する。
で、以下のように考える。

つまり、だんだんに時代が進んでくると、いろんなことが便利になる。例えば、自動車。ね。昔の人は、どんな遠方でも、二本の足をば、たがいちがいに前へ出して、てくてくてくてく歩いていったものなんだよ。ね。それに比べて、どうですか? いまは? ね。自動車、なんてものが発明されて、自分はクッションの利いた椅子に座っているだけで、あっという間に目的地に到達してしまう。

続いて、自動車だけでなく、新幹線、フィラメント電球、飛行機、種痘、電話、など、「偉人」による発明や発見を挙げていく。
で、その結果、世の中が便利にはなったが、世間の世知辛さは増したのではないかという考えにも思い至る。
世知辛さの一例として、主人公は「物売りの声」の効果の有無を挙げる。

物売りの声、ひとつとってみてもそうである。昔は、辻々角々を、天秤棒を肩にかついで流して歩く、物売りというものがあった。冬の寒い夜。親ばかちゃんりん、そば屋の風鈴、なんて、風鈴蕎麦。「そーいやうい」
(中略)
つまり、昔は、なにか商売をする場合の宣伝・営業活動は、往来に立って、大声でたてまえを言うだけで事足りたのである。
(中略)
それがいまや、どうですか? 宣伝活動は? ふざけきった偉人どもが、訳の分からぬ装置・機械を発明しやがったせいで、世の中が世智辛くなり、複雑になった昨今、往来でたてまえを叫んだところで、人は見向きもしない、下手をすれば狂人扱いされるのが落ちで
(後略)

ま、つまり、主人公は、ある仕事を創出し、そのために住宅地で「物売りの声」を上げてみたのであるが、

わたしを呼ぶ主婦はなく、夢がこわれました。

となったのだ。
だから、

まったくもって、偉人のぼけはなにをさらすのであろうか。ひとの夢をこわしやがって。勝手なことをするな。

と思い、さらに、

(前略)
それから、二、三日、居間に座って偉人を呪っていたのである
(後略)

このあたりはリアルに、二日も三日も居間にて偉人を呪う男というのを想像していただきたい。
ま、このあとまた話は発展していくんですがね。
彼の文章は極めて音楽的で心地よく流れていくので、音楽好きは多分読みやすいと思う。
 
いちお、本の紹介。

夫婦茶碗 (新潮文庫)

夫婦茶碗 (新潮文庫)