「もっと平気で」という表現

こないだ久々に、これまで自分でコレクションした岡本太郎の言葉を読み返してた。
で、一番「……だなあ」と思ったのが、全文ではないけど、ある言葉のなかの、
「もっと平気で自分自身と対決するんだよ」
という部分であった。
 
結局のところ、これがずっとできなくて。
いろいろ、いろいろ、考えた結果、
自分はこう!
と思い込んでた自分が、実際の自分と激しく違っていた、というのもあるが、もっとあるのが、
自分はひとからこう見られている!
と思い込んでいた自分像もまた、実際に思われていたものと激しく違っていた、と判ってきた。
 
自分をどう思っていたか、とか、それがどう(今の時点で見えている)真実とずれていたか、とかは、ほんとに膨大な量の思索を何年にもわたってしたので書きませんが、早い話が、実際の自分、に見合った生きかたをしようと思うと、(いい意味で!)えらいことになるので、(いい意味なのに!)ずっと逃げまわっていたわけです。
 
その理由のひとつは
「責任を取りたくない」
ということであった。
ここで言う「責任を取る」とは、一般的な意味でなく、
自分の言動の「結果」を「他人のなかに見る」ことから「目をそらさない」
という意味です。
 
……と書いてもこれもまた非常に断片的な話でなあ。
しょーじきに言うと外に向けて書く、ということは自分の思考のスピードにまったく追いつかないので(たぶん誰でもそうでしょう)、結局は断片的な情報しか提示できず。
ま、いいんですけど。
 
で、岡本太郎の言葉の話をしたのは、
「もっと平気で」
が、だいじだなあ、と。
 
わしは何だか、怖い、怖い、ということばかり、いろんな場面で思ったり言ったりしていて、で、そうやってずっとうだうだ言っていて、あるときものすごく思い切ったことをする、というのがパターンなんだけれども。
で、そうやってものすごく思い切ったことをしたあと、もちろんそこに至った自分の変化は重要であり、行動を起したこともまた自分の今後の成長の約束でもあるのだが、しかし、それでも、気づくとすぐ「これが怖い、あれがどーの」と言い出すんだな。
 
先日中、
「このブログはよけいな機能がついていていやだ」
とかぶーぶー言っていたが、岡本太郎
「もっと平気で」
という表現を目にしたときに、
「このブログはよけいな機能がついていていやだ」
というのも、「すぐに怖いと思う」の一種だなあと気づいた。
 
岡本太郎の有名な言葉で、
「いいかい、怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ」
というのがあるが、これは基本でありつつもわしみたいなのにはまだ高度すぎる。
 
から、「もっと平気で」が、今の自分にはちょうどいいなあ、と思って。
岡本太郎
「もっと平気で自分自身と対決するんだよ」
と言っているけれども、これ、自分自身じゃなくても使えるなあ、と思って。
 
まあそんなわけで、
「よけいな機能」
を恐れる自分を、まず、
「ま、怖いことはあるよね。別にそう思ってもいいんじゃね?」
と安心させておいて、しかしわしの本体はすかさず「もっと平気で」いろんなことをする訓練、のほうにシフトすることといたした。
 
ので、先日
「パソコンからの長文はあ、別ブログに書くかもお」
とかうじうじしていたが、それは撤回し、パソコンからの長文もこれまでと変らずこのブログで書きます。
 
というだけの告知をこの長文で行うわしwwwww
 
 
どーでもいいですが今日やっと新たなパソコンをセッティングした。
箱を開けて、テレビ機能がついているのを知った。
でも、買うときに、
「テレビ機能はいらんのです」
と言ったが店員が
「昨今のパソコンはほとんどついてますので」
と言ってた気もしてきたがまったく記憶にない。
 
あと何かあったかな……おおそうだ、「警視庁捜査一課9係」、最終回だったのか?
録画しててまだ観てないが。
(最終回直前まではもちろん全部観た。)
矢沢くんがだんだん青ちゃんにぼそぼそと呪詛を吐き始めたのが笑えるなww
「おい。おまえ。それ。聞いてないぞ。みんなにも言わないと。な。おい」
など。
でもほんとは仲良しなわけだが。
 
あとは……あ、音楽ネタなんで気が向いたら別エントリで書く。
とりあえずめし ノシ