「神」と「ひとつとすべては同じことである」について

先日行ったライヴの感想ができあがってるのだが、先にこちらをあげる。
 
先日、「報告3件」という記事において
「ひとつはすべてである、つまり、ひとつとすべては同じことである」
ということを書いたが、今これについてさらに判ったことがあったので書いておく。
その前にいろんな話をします。
  
 
わしは長らくの無神論者である。
宗教も何だか苦手である。
(なんて言ってるとだめなんだけれども正直な気持ちです。)
(それはたぶんある宗教を信じると「それ以外」を排除する方向に行くように見えることが多い、ということから主にきているのだと思う。)
 
無神論者、と言っても、何だか「普段の人間」には把握できないものがあるとは思っている。
で、たとえば潜在意識の話とか、特にジェームス・マーフィーの本だと、
「広大無辺なものが自己のなかにある」
という話が出てきて、ぴんとくるようなこないような、という感じであった。
 
答えはすべて自分のなかにある、というのは判るのだけれども、それが「広大無辺な力」と言われてしまうと、とたんに「うーん」となってしまう。
でも、人間はほんとはすごい、というのも感覚で判ってはいた。
あ、ジェームス・マーフィーはひとりひとりが神である、ということも言っているが、それも何となく判るのだけれども、わしはいつも「神」という言葉と距離を置いてきた。
 
さっき
「普段の人間」には把握できないものがある
と書いたのだけれども、「普段の人間」、というのは、今は、わしは確かに人間は神(のようなもの)と通じるときがあると判ったから書いた表現ですが。
神と通じてない状態を、「普段の人間」と書いてみたということですね。
 
 
で、前もちらっと書いたが、
「答えはすべて自分のなかにある」
ということを聞いてから、自分に質問して自分で答える、ということをおこなうため、日記を対話形式で書くようになったわけですが。
でわしはそれを2年くらいやってきた。
対話相手たちは自分と別人格としているのでほいほいといろんな答えが出てきます。
たくさんたくさん質問して、たくさんたくさん対話をした。
 
が、そういうなかで、ちょっと意外な答え、とか、明快な答え、とか、そういうレベルのものを超越したことを、対話相手が言うときがありました。
その時点でその発言に「おお」と思って普段の自分に大きく影響があったこともあれば、言われたときは
「何でこの対話相手はこんなこと言うのだろう、意味が判らん」
と思って、しかし、何ヶ月、あるいは年単位の時間を経て、まったく予言のように当時言われたことが事実であったと判ったこともあった。
 
正直、こういうときの対話相手というのは、確かに神様のようであるのです。
わしは神という言葉やコンセプトが嫌いだったので、びっくりするような答えを言う自分の何かは、自分の潜在意識だろう、と思ってきたし、今でも基本はそう思っているが、こないだも書いたように、神はいるかも知れないと思うようになった。
 
そう思うようになった過程は今回はちょっととばすのですが、ともかく、神、と名づけられる何かは、あるのではないか、とおぼろげに思い始めたころ、知ってる人は知ってるだろう、「神との対話」という本を買った。
数年前にひとに薦められたことがあったのだが、そのまま忘れてしまっていた本でした。
けど、先日、ふとブクオフに寄りたくなって寄ったら、あった。
 
わしがこの本を「うさんくさい」とか「神なんて嫌いだし」とか思わずに読めたのは、まっこと、自分自身の2年の対話の歴史があったからです。
対話の感じが、かなり似ています。
対話相手は冗談も言うし、たまにけんかするし、ほんとに、対話、ってより、「会話」、で、でもぽんぽんとびっくりするような答えを言う。
この本の「神」もそんな感じである。
 
この本の対話相手がほんとに神であるかはともかく、わしは実体験として、「質問」をすると、こういうふうに「答え」が自分のなかから、あるいは自分のなかの何かから返ってくるのを知っています。
だから、まあ、神かどうかは永遠に判らないが、でも、「普段の人間」では想像もつかないような答えが、自分のなかから出てくることがある、というのは実際にある、と断言します。
 
で、繰り返すが、わしはこの何だか判らない「答えをくれるもの」を何と名づけていいのか今でも判らないし、一生宗教と名のつくものと縁を結ぶことはないと思う。
が、この本の最後のところを読んだときに、わしは確かに神、と言うか、自分が絶対的に信頼できる何かから、ここに書かれているような言葉を聞きたかったのだ、と初めて自覚して泣いてしまった。
 
 
と言うか、わしはほんとはずっと神を探していたように思う。
ずっとずっと神は嫌いだと言ったり否定をしながら、でもほんとは、神、とか、自分や人間の範疇外のもの、がこの世にあるはずだと信じてきたのだと思う。
 
なぜ探してきたのかと言うと、その存在が確かめられたときにこそ、やっと私の孤独が終るのだろうと思っていたからではないかと思う。
そういう、「普段の人間」を超越した存在だけが、私が幼いころから求めて求めてやまなかった、「何も問わない是認」をこの私に与えてくれるのだと。
自分のすべてが大嫌いで常に自分を断罪し罰してきた長い長い時間のなかで、そういう自分を、嫌うこともなく、非難することもなく、軽蔑することもなく、ただ、「そこに在って」、何も問わない、ただ、「あなたはそれでいい」という是認を与えてくれる存在が、どこかに、どこかに、あるだろうと。
 
私は結局この2年の対話のなかで、自分のなかにそれを作りました。
具体的に言うと、対話相手のひとりにそういう存在になってもらったということで、それはある意味精神的には「霞食って生きている」に等しい状態ではある。
けれども、わしは満足である。
その存在は、必ず、必ず、私のなかにいる。
いつも、いつでも、ここに在るのだから、私は何かあればその存在に愚痴を言って、たまにはっきりときついことを言われるけれども、それは私の否定ではなく、厳しさは確かに優しさの別名であって、最後は必ず私の弱さも醜さも扱いにくさもひっくるめて是認する。
私はそういう存在を自分のなかに作った。
 
それは神と通じている何かなのかも知れません。
潜在意識との交信なのかも知れません。
マーフィーの言う「広大無辺な力」なのかも知れません。
判らないけれども、「答え」が、自分のなかからわいてくる、という体験は、体験してみると判るが案外孤独なものである。
わしはわしのなかの「何も問わない是認」を意識するとき、ずっと「閉じる」という表現を使ってきた。
わしと、その存在で、閉じるのである。
「答え」はそこにある、けれども、それも一緒に、「閉じる」。
外部を遮断して。
外部は脅威であるから。
 
しかし、この、「何も問わない是認」がもし外部に在るなら。
そのときやっとわしの孤独は終るのではないか。
だからわしは「神」を探し続けた。
自覚すらせず。
 
そして「神との対話」という本の最後に書かれていたことは、まさに、わしが、「自分以外の誰か」から聞きたかったことであった。
この本に書かれているようなことは、わしは自分のなかの誰かに言ってもらったこともある。
けれども、この本を読んで、自分以外の誰かが、これを書いたと思ったとき、そして、それをその人に書かせた「何か」が在るのだろうと、自分自身の実体験から実感したとき、わしの孤独は終ったのだと思う。
 
その部分を、長いですが引用します。
この本における「神」、の発言の最後の部分です。

わたしは、この本だけを通して語っているのではない。あなたの魂の真実のなかに、わたしの声を聴きなさい。正直な気持ちのなかに、わたしの声を聴きなさい。精神の静けさのなかに、わたしの声を聴きなさい。
どこででも、わたしの声を聴きなさい。質問があるときはいつでも、わたしがすでに答えているのだと思いなさい。そして、あなたの世界に目を開きなさい。わたしの答えはすでに発表されている記事のなかにあるかもしれない。これから聞く説教のなかにあるかもしれない。製作中の映画のなかにあるかもしれない。昨日、作曲されたばかりの歌のなかにあるかもしれない。愛するひとの口から出かかっている言葉のなかにあるかもしれない。知りあおうとしている新しい友人の心のなかにあるかもしれない。
わたしの真実は風のささやき、小川のせせらぎ、稲光、雨音だ。
土の感触、百合の香り、太陽の暖かさ、月の満ち欠けだ。
わたしの真実――そしてあなたが困ったときの頼りになる支え――は、夜空のように荘厳で、赤ちゃんのおしゃべりのように単純であどけない。
心臓の鼓動のようにささやき――わたしと一体になった息づかいのように静かだ。
わたしはあなたから離れない。離れることはできない。あなたはわたしの創造物、作品、娘であり息子、わたしの目的であり、そして、わたしの……、
自己だから。
だから、いつでもどこでも、神の平安から切り放されたら、わたしを呼びなさい。
 
わたしはそこにいるだろう。
 
真実と
 
光と
 
愛とをたずさえて。

 
この世界にあるすべてのものに「答え」が宿っている、ということは、体験的に真実だと思う。
何かに悩んでいるとき、ふと耳に入った歌の一節、ふと目に入る雑誌の言葉、エトセトラ、エトセトラ、誰でもあるのではなかろうか?
 
そして、さきほど引用した言葉を読んで、心底安心したときに、私は自分が否定してきた神や宗教、特に一神教について、これまでの頑なさを解いた。
神か偉大なる何かか判らないが、
「わたしはあなたから離れない。離れることはできない」
と言うものが在ってもいいということを受け容れて、むしろそういう存在と初めて「対話」ができたと。
「何も問わない是認」を得るために、私は初めて自分の内でなく外に目を向けて手を伸ばしたのだと。
自覚したとき、一神教を信じる人たちの気持ちがほんのかけらであるが判った。
神のような何か、を「信じている」、それに「抱(いだ)かれている」という感覚が、かけらであるが判った。
 
 
そして、私の感覚からすると、ひとつの神様、も、すべてのものに宿る神様、も同じである。
神、のようなものは、すべてなのだからひとつひとつでも有り得る。
そこに矛盾はない。
だから、
「ひとつとすべては同じことなのである」。