2009年4月その1

自分用日記抜粋シリーズ。

5月に入っていきなり再開したぶんについて、ちょとup日を変えたり整理したんで、まとめると、
2009年3月その2
2009年3月その3

てことで4月ぶんのその1。
以下は、「子供」、英語の心理系でよくinner childいう言葉が出てくるようですが、内なる子供、自分のなかに住んでいる子供としての自分、というコンセプトについてですね。
わしはその存在にもたまに質問をしたりする。
 
2009年4月その1

腹(註・「inner child」のこと)から何か信号が来てるので……人と話すのに躊躇する理由について。
うまくいかなかったらどうしよう、というのがでかいなあ。
知ってる人と廊下とかですれ違うのが嫌いな理由も同じなんだよね。
ってか、認識されたくない。基本的に。
人と接しなければいけない、というのは大変苦痛だ。
まあ、ほんと、基本的に閉じているから、当たり前なんだが。
しかし、ほんとは人と交流したいのだと思う、ってか、交流したいというのも本音ならば、誰にも認識されたくないというのも本音だ。
同じ強さで在る。
で、これらは表裏一体……なのか?
一番うまい言いかたは、アクセル踏みながらブレーキ踏んでる、だと思うんだが。
 
ってか、何だろね、何かこう、心がきっちり置けないってか。人といると。
何かが起動するんだよ、何だろうか、こう、どうしよう、どうしよう、という動揺のアプリケーション……かなあ。
 
ってか、自分の世界ってのがたぶんだいじすぎるんだよ。
人と接してそれが脅かされることに危機感がある。
……だから、「平穏」なんだってば。
それが崩されるファクターの可能性を、どうしても見ちゃうんだよ、他人と接するという行為のなかに。
 
「平穏」とか「安定」が自分にとってここまで重要でないなら、そういう危機感は感感じないだろうなあ、動揺のアプリケーションってのも、こっからきてると思う。
 
しかし、「守っていたい」自分の世界ってのは何なんだろうか。
いや、それがくだらねえと言う気はないよ。
そういう自虐と自己憐憫の時代は終った。
自分の世界って、何だろうなあ。
ってか、これまでそこでしか生きてなかったよね。
子供のころからの、ひとりっこゆえの、閉じた世界ってやつで。
だから、その方法論しか知らないんだよ、閉じた世界で生きるって方法論しか知らないんだよ。
だから、動揺のアプリケーションが起動するのはしょうがないんだ、人と接するときに。
で、そうなんだよ、人といてリラックスするってことは、まずないな。
これはもう、誰一人残らず。
(親といてリラックスできないのはもはやデフォ。)
 
ほんと、nessuno(=no one)だ。
ここは、完全に。
リラックスは、完全に自分ひとりでしか成立しない。
 
ってか、人と会って、たいがいとっても楽しいと思って帰ってくるじゃないすか。
で、それは事実なんだよ。楽しいんだよ。
でもたぶん、「楽しい」よりも「安定」が重要なんだろうな。
だから、あらゆる意味で外に出ようとしないのはそういう理由で。
訪れる結果がどうのってよりは、ただ、この、自分の世界に収束したいんだ。
 
ってことはさ、逆に、自分の世界を守ってはいけない、という気持ちがあるってことじゃないすか、人といて、発話できない自分にダメ出ししてるってことはさ。
この禁止事項は……なぜ出るんだろうか。
自分の世界を守るのが何より大事ならば、人とあまり話せない……いや、何だろう、ほんとは話せるんだよね?
それは実は判ってるんですよ、そうそう、さっきイメージしてたけど、積極的な自分とwithdrawn(=引っ込み思案)な自分、完全にふたりいて。
昔は特に、最初は前者の自分が出てくるんだけど、何かのときに……ああ、相手に甘えたりとか、何かでいじけたときに、後者の自分が出てくるんだ。
だから後者のほうがinner childだよね。
子供は何を言いたい?
なぜいじける? なぜひっこむ?
何か気に入らないんだよね、自分の全力出し切ることを禁止するんだよね、この子供が。
なぜだ?
ああ、
「そうじゃなかったじゃん」
ってことか。
子供が子供だったときに、そうだ、そうじゃなかったね、他人と楽しむなんてできなかったね、他人だけでなく自分以外の人間すべては脅威だったね。
人が好意向けてくることはなかったね。
それが私の世界だったね。
主に幼稚園時代。
友達なんてもちろんいなかったし(ほんとはいたが、いなかった、という設定に子供の頭のなかではなっている)、幼稚園の先生も私のこと大嫌いだったよね、親については論じるまでもない、それが子供の現実だったので、何を今さら、と思っているわけか、ひとと楽しくやるなんて現実じゃない……そうだ、他人と楽しくやるのは、子供の世界では常に妄想の世界だけだった。
 
ああ、でも、もう夢じゃないぞ。
夢ってか、妄想じゃないぞ。
人と楽しい現実築いてるってのは現実だぞ。
でも、子供はそれが認識できないか、そうか。
ってか、むしろ、現実かどうかなんて興味ないらしい。
現実かどうかより、自分がかわいそうであることを、喧伝したいらしい。
「かわいそうだから!!!!!!!!!」
と言い張っていたいらしい。
そっから進みたくないそうだ。
自分がかわいそうであることを常に確認していたいそうだ。
 
この子供は私のほんとのエンジンだからな。
これまで、それと違うエンジン動かして生きてきたけど、ってか、子供も、最近は協力してるんだ、いい現実を作ろうという運動に。
でも、何かスイッチが入ると、いじけてエンジンを止める。
 
私はかわいそうだから!!!!! と怒っていたいなら、怒っていればいいんじゃないだろうか。
ああ、突き放す意味でなく、黙るまで、聞いてやればいいんじゃないだろうか、「かわいそうだから!」という怒りを。
そして、詳細に話をさせる。
なぜそこにとどまっていたいのか。
……
「あれは何だったんだ」
と言ってる。
幼稚園時代のあの暗黒の時代は何だったんだ、と言ってる。
あのときの苦しみは何だったんだ、と。
その後いいことが待ってるなら、あの不幸な時代は意味がないじゃん、と言ってる。
ってか、自分だけが損した、って感じだね。
幼稚園時代の自分だけが、と。
だから、今の自分が幸せになるのが納得できないらしい。
ああ、そういうことか。
 
でもさ、まあ子供が聞くか判らんけど、今思うのは、幸福は絶対不幸を内包してるんだよ。
それは真理だよ。
それは幸福(だけでなくすべてのもの)は永続しない、という意味でもあるし、また、逆に言えば、過去が不幸ならば、その不幸さを内包した幸福もあるってことなんだ。
 
だから私は「天使」を欲した。
天使を欲したのは今の私ではなかった。
子供の、過去の自分であり、また、未来の自分でもある。
この天使でなければだめだ、と言ってる。
Tiziano Ferroの声でなければだめだ、と言ってる。
この人しか天使になれないのだ。
この人の声しか判らないのだそうだ、子供は。
ものすごく頼りに思ってるそうだ。
彼なら子供をreject(=拒絶)しないそうだ。
一緒に遊んでくれるそうだ。
同じところで。
同じような感じで。
……「閉じて」いるのはそういう理由か。
彼を天使と想像すると、世界がものすごく閉じている感じがする、と思っていたのは、そういう理由か。
そして、その世界に、私は常に引きずり込まれてる。
それがいけないわけでもなくいやなわけでもないので別にいいのだが。
だからここまでattached(=近くて離れられない)な感じがするんだ、Ferroの声に。
 
この声のあるところ、子供が完全に安心するところ、それが、私が崩されたくない私の世界なんだよな。
……いや、ってか、ひとになんか崩されないよ、この世界は。
何があっても、別に崩れないじゃん。
私がいる限り、崩れない。
消失するのは唯一私がいなくなるときだけだ。
だから動揺する必要なくね?
そこまで閉じているなら、他人が影響与えることなんてできないってば。
Ferroと楽しく過してくれよ、子供さんよ。
辛いことしかなかった幼稚園に……ってか、どうも、Ferroは声だけらしい。
ってか、この声がすべてを語ってるそうだ。
それ以上も以下も興味ないそうだ。(子供は。)
この声で、すべて判るそうだ。
そこだけで、完全に通じるそうだ。
だから、この声でなければいけない、らしい。
この声がある意味到達点らしい。
ここに来たかったらしい。
この声のあるところに来たかったと。
これは、現実だ。
この声が、現実だ。
この声は現実にある。
それはしっかり認識してるらしい。子供も。
この声が、しっかり支えてくれるそうだ。
この声は、すべてを包むそうだ。
方法なんてどうでもいいそうだ。
これが、「世界」だそうだ。
こういう世界で生きたいそうだ。
駄々をこねる先でなく、今、この、この声がここにある感じで、歩むそうだ。
この声があれば、いいそうだ。
La sua voce e` tutta.(=この声がすべてだ。)