2009年3月その2

めっさ久々すぎるが自分用日記抜粋の続き。

 
2009年3月途中まで

(註:わしの好きな歌手のひとり、ティツィアーノ・フェロについて)
 
最初は……そう、「111」(註・アルバム名)を買って、数日後、会社で何かいやあなことがあって、でも心の中で"Sere Nere"(註:曲名)が流れてて、ふとそれに心のなかで耳を傾けたときに、とても安心したという、そこから、フェッロの音楽は私にとっては安心なのだと。
今も、そうだ。"Ti Scattero` una Foto"が、私の心を守っていて……そう、まさに、こういうとき、彼の音楽と声は天使として私を包んでいるのだ。
 
その完結ぶりに、おとといくらいに「とてつもなく閉じた世界」という書きかたをしたのだが、うん、どうしても、閉じていることが安定なのだから、そうなる。
 
(中略)
 
そしてこれは、ある意味、自分を守ることを自分に許したということでもある。
特殊な、あるいは間違った方法で守る、ということは、潜在意識の本質として、ずっとやってきていたけど、もっと、暖かい意味での、言い訳も理屈もないところでの、つまり、「自分はこうではいけない」がベースとしてないところで自分を守るということは、今までやってきていない。
けれど今は、ネガなところも全部ひっくるめながら、ああそうだ、それさえも内包して、世界を閉じたんだ。
だからすごく、新しい段階にいる気がする。
し、新しい段階だから、また問題が出てくる。それらはすべて、今理解すべきことを自分に気づかせるために。
 
(中略)
 
ただ、ほんとに、すべてをそのまま「包んで」いるのだった。
彼の音楽が。彼の声が。
そうだ、だから、すごく「閉じて」いる感じがするんだ、これまでは、外部と折り合いつけられない自分を否定しつつの、外部と適合していくための、時間だった、けれど……うん、本当に自分を守るという行為は、非常に閉じた行為なのだな。

「手に入れられると信じられようになって初めて手に入る」というのは、たぶんこんな感じじゃないかと。
まったく、これからどこがどうどうどうどうどうなって、最終的なところに辿り着くか判りませんけど、きっと、すべてつながっているのだろう。
 
(中略)
 
いろいろあるだろうが、これだけ多くの人が彼(ティツィアーノ)の声を求めるならば、すべてを乗り越えて、あるいはすべてと戦いながらも、最終的に歌っている、というのはとても重要なことであり。
そういう形で、彼は彼の人生の責務を果しているのであり。
ロブに対しても思ってたけど、I thank him for doing what he's doing, it is such a salvation for me that he's doing what he's doing without having been beaten by his hardships.(=今ロブが音楽をやっていてくれることに感謝する。過去の苦難に打ち負かされずに音楽をやっていてくれることは私にとって大きな救いだ。)
It is the same with Tiziano Ferro; because he's overcome his hardships, he is there singing for us.(=ティツィアーノ・フェッロについても同じだ、苦難を乗り越え、今、みんなのために歌っている。)
You've got to fight to know who you really are.(=本当の自分を知るには戦わなければならない。)
Without fighting, you will never know.(=戦わずして、知ることはできない。)
Those guys are who have fought for it.(=ロブとティツィアーノは、そのために戦った人だ。)
And I've been also fighting for it.(=そして私もそのために戦ってきた。)
 
(中略)
 
うーん、何かほんとに、これまで「ないもの」を求めて、探して、きたように思うな。
ほんと、なかったんだよ、あのころ探してたものなんて。
自分の立ち位置が判らずに、自分の足元を埋めるために、必死に外を見ていたが。
「ないもの」だから、探しててて、苦しかったなあ、ほんとに。