2009年2月〜3月その1

私が2009年から抜粋を始めておるのはこの年の中盤から「自分で自分のカウンセリングをする」みたいな方法を自然に取り始めたのでその過程をちょこっと出しておきたいというのがある。
 
2009年2月

結局私は本当の本当に「私だけ」の問題には向き合いたくないのだった。
ここにも、一度も書いたことがないのだった。
自分のなかの他人をからめるという方法でしか自分が考察できないのだった。
それだけ恥ずかしいんだ。
一度だけ、E(註:自分のなかの他人のひとり。架空の人物)に相談したことがあったっけ?
あれも、読み返す気にならない。
それと、自分の苦しみを見事に「一度も」是認したことがないのは、同じ根っこからきている。
そしてまた、私は「絶対的に」ひとりでいたい、ってか、そう願っている自分がいる。
人とのかかわりはできればしたくない。
 
ってかよ、だから、私はほんとは問題なんか解決したくないんだってば。
今の問題に向き合いたくなんかないんだってば。
親のために何かする?
ありえんだろ?
そこなんだ。
照れ、以上の理由があり、それこそが理由なわけだが。
 
基本的に、このパラドックスは常に存在してるんだが。
問題を解決したくないのは、問題を解決したくないからだ、という。
解決したくないのは解決したくないからで、そこにはまるから何も変らないのだが。
苦しんでいたい、のだろうけれども、もうひとつ別の何か……復讐とも違う、なあ、ロブ、何なんだろうな?

受け止めてもらったじゃないか、ロブに。
思えば、ロブはこれまで私にとって唯一の、あっちゃんの言葉を借りれば「細い線」だったんだ。
ほんとに、ロブだけだ。
唯一の。

 
2009年3月途中まで

さっきまたNINの映像が流れてたが、、、最近あらゆる意味で敗北しそうになってたことに気づいた。
自分にとってのこういう音楽、もしくは大切なバンドの重要性ってより……うん、こういうものが自分を救ってくれることすら忘れていたというのか。
いや、どういう気持ちのときどういう音楽、ってのははっきり決ってるんだけどさ、何だろう、NINやレズナーがどうのってより……何だろうなあ、自分にはこれがあるのに、と言うか……こういうものを持つことができてる人生なのに、それでも敗北しそうになってることが、まあやっぱりショックだったと言うのか。
もちろん音楽に触れること自体は至福なのだが。
それでも負けそうになるんだなと。
そして私は戦うには、どうしても、どうしてもこういう音楽(ジャンルじゃない)が必要なんだ。
 
レズナーに関して言えば、彼にとってもまた人生は常に戦いであって。
最近は音楽業界との戦いになってたけど……戦いの結晶がまさに彼の音楽なのだが、うん、そこでやっぱり、そうなんだよ、戦ってる人が作るものにしか共感できないのだと思う、今は。
たとえその戦いがダイレクトに語られなくても、この音の背後で確実に作り手が戦ってるという事実が、どうしても私には必要なのだと思う。
特に、戦う相手が「理不尽」を象徴するものである場合に。
レズナーもまた常に理不尽と戦ってきたはずだ。
大変に孤独だったはずだ。
そしてその孤独は、彼自身が選んだもののはずだ。
(配偶者がどーのどかは関係なくね。)
ってか、「こうしか生きられない」ってことなんだがね。
 
それはやっぱり宿命のようなものであってさ。
そういう人間にとっては人生そのものが理不尽であり。
……だから私はこういう音楽が好きなのかも知れないな(ジャンルって意味で)、理不尽さへの怒りの発露、という点において。

ただ未来だけがあればいいのだ。
すべては未来に帰結するのだ。

決めれんかった、結局。
おおごと、ではないんだが、いや、おおごと、なんだよ。
先週休んでさえいなければ。
何が問題だったんだろうか?
(中略)
そうだ、判った、行きたい、けれど、行くだけの勇気がない、ということだ、今の自分にはまだ。
 
(中略)
 
でも、とりあえず、とりあえず、今は、未来だけを見よう。
私は、日本じゃないどこかで、やりたい勉強をしていて。
その未来に、今日の悩みはどのくらい影響するんだ、と。
しないだろう、と。
自分が自覚している以上に(中略)自分にとって重要なことは判っているけど、でも、それはたぶん、未来とは関係ない、ただ関係あるとすれば、こうして心痛めたり悩ませたりすることが、未来の自分の心に彩を添える、ということだけだ。感じれば感じるほど豊かになる。その一環でしかない、今のうだうだも。
 
この3日間のうだうだも、無駄じゃない。
精一杯悩んだんだ、誰かのためにね。
それでいいんだよ、今日は行かないにしても。
 
またいつか、いつか、ね。
晴れ渡った日にね。