社会に埋没する

以前ついったで心理学者のかたが
「普通の人とは自分が普通であるかどうか疑いもしない人」
とゆうていて、考えさせられました。
 
自分が普通であるか疑わない、というのは、周囲と自分が同化しているのが当然ということであって、わしには一生持てないだろう感覚です。
 
わしが自分を疑い続けたの理由のひとつは自分に自信がないからでしたが、自分が完全に周囲と同化していると認識すると、自分に自信があるかどうかを問う必要さえないのだろうな。
僕/私の言うことは人の言うこと、となって、責任の所在は「みんな」になる。
 
日本の人が自分で考えることを忌避するのは、この、責任を取る、ということをしたくないからだろうと、私も考えるが他にもそう考える人を発見したことがある。
責任の所在が「みんな」になるからくりも、↑のように考えて判った。
 
 
ずっと前についったで、
「西洋では社会に埋没してはいけないという恐れが個人を苦しめる。日本では社会に埋没しなくてはいけないという圧力が個人を苦しめる」
ということを書いたことがあって、そして、日本の、自分で考えるのは悪であるという考えは、確かに個人をラクにすることがある、とも書いた。
 
が、今はやっぱり、わしはこの日本のありかたには真っ向から反対したいと感じる。
自分の考えや行動に責任を取らなくてよい、という生きかたは、当り前ですが、無責任極まる。
わしは、自分が、いつも間違ったことを言っていても、あほ丸出しでもかまわんので、「わしが考えたことだから」と言って自分だけは自分に寄り添えるような、そんな生きかたがしたいと思うようになりました。
 
それぞれが考えることや感じることは、究極それぞれにしか考えられなかったり感じられなかったりするのは当り前で、それが時に他人と合致したときに大きな感動を生むのであって、最初から「みなと同じでなければいけない」のであれば、やはり個人が存在する意味は皆無と思う。
 
日本の病理は、究極、この、「個人が存在する意味がない」というところにあると思う。
ついったで何度かこのへんは他の人とも話しているけれど、日本では個人は「日本的何か」を維持するための要素でしかないのであって、個人であろうとするととたんに社会と対立することになる。
 
社会と個人の対立、というのは、当然西洋でも語られるテーマ(しかも重要な)ではあるが、あれは、最初からちゃんと社会と個人が切り分けられたうえでの対立であって、定義上は、同じ土俵のうえで、五分で戦う、ということになっている(と思う)。
が、日本は、社会と個人が観念上切り分けられていないので、個人であろうとすると、社会も自分なのにそこから自分を切り離して個人であろうとするのは論理上不可能である、というような、奇妙なパラドクスを最初に抱えざるを得ない。
 
 
「奇妙」、という言葉を出したが、最近日本社会への苛立ちは薄れ、「奇妙だ」という冷静な感覚に帰結する、というふうに、変ってきた。
日本社会と自分の切り離しが、かなり進んでいるのだと思う。
前書いたかも知れないが、日本社会のありかたに違和感を感じる、ということに関してはわしはベテランでありw、ある必要性があって「保守」側にいた5年間を除いては、人生ずっと「へんだなあ」と思っていた。
最近は、食堂ですごい音をたてて食事をするオサーンを見ても、いきなり激昂するオサーンを見ても、人を陰でディスることだけを生きがいにしてるようなおばはんを見ても、「奇妙だなあ」と思うだけになりました。
 
正直こういう例を挙げると、問題は世代なのだろうということになるが、ま、確かにそういうところもある。
某世代が絶滅するころには日本はかなり「普通」の国になっているだろうと思う。
まあわしら以降の世代の傷が癒えることはないがな。
それでもいいんちゃう?
「未来の日本のための捨て石になるのだ(キリッ」
という悲壮な思い(今はもうほんとにこういう考えはくだらんと思う、ごめん)でなく、ええやん、わしら以降の世代の人生は社会のせいでさんざんであったがそれと個人の幸せは別と思う。
自己責任、てことでもなく、ひとりで、自分にしか得られない幸せを、したたかに得たらええんちゃうん、というようなことです。
 
だから、最初に書いたように、
「わしは、自分が、いつも間違ったことを言っていても、あほ丸出しでもかまわんので、『わしが考えたことだから』と言って自分だけは自分に寄り添えるような、そんな生きかたがしたいと思うようになりました」
なのです。
 
長くなったのでこのへんで。