外国語とか外の世界とか何かとりとめもなく

また今日も長文で恥をかこう。
 
外国語(英語)ができなければ世界の情報がとってこられない状況というのは、もどかしい。
あ、この意味では、翻訳という作業はおおいになされるべきだと思う。
 
……いや、展開とか結論とかないっす。
自分はただ好きだったので英語を子供のころからやってきて、英語という言語の性質上、やっているうちに外の世界を見る機会をはからずも多く得た。
私はごく最近まで精神的にかなり未発達であったので、豪州に住んでいたころとかはかなり恥ずかしい人間で、前も書いたがひとりも続いている外国人の友達がいない。
 
いや、だからこの日記に展開とか結論はないのだがw
 
今日「24-リデンプション」という映画を観たが、平日に観るにはちとヘヴィだったの。
口だけでなく、ほんとに貧しい異人種の世界に分け入っていって彼らを助ける白人が出てくる話だったが、私は英語をやる過程で、時間軸に沿ってそういう人たちが増えていくのだろうと思っていた。
が、現実はそうでもない。
いや、白人がどーのということではなくてね。
 
「違う」ものを受け容れるというのは、それ自体かなりしんどい「試し」で、たぶんほとんどの人はこの試しをパスすることはできない。
ゆうべ中華料理屋に入ったが、中国人のおかみさんが、レジのところでくっちゃくっちゃガムかんでんだよ。
「こっちは食事中だってのにその音はねえだろwwwww」
と思わないようにしろ、と言われても、むりだもの。
あるいは、我々にとって普通であるそばをすする音だって、別の文化の人からすりゃ不快極まりないもの。
 
展開ないのでだらだら書くけど、スイスでモスクの尖塔を建てるの禁止い〜、となったのはおととしくらいだったっけか。
今は欧州と言えばフランスのロマ(ジプシー)の問題があるが、例えば実際問題、例えばイタリアに旅行しようと思うと、
「ジプシーには気をつけろ」
という話は必ず出てくるからね。
 
かと言って、差別はやめようよ、みたいなことが、理想主義なのかどうかは、こりゃわし実は答えなどないんじゃないかと思うんだよね。
正直うちらは差別を受ける側である。
特に白人の世界に行っちゃうと。
だから、差別はやめてほしいなあ、というのは、現実問題なんだよね、だって、実際にすれ違いざまに揶揄してくるような連中がいたり、あるいはひどいと危害を加えてきたり、そういう問題に実際に遭ったときは、これはもう現実の問題なんだよね。
差別してくる側は
「差別するなというのは理想主義だ」
と思うのだろうけど。
 
ただ、ひとつ、差別ちゅうのは無知からくることが非常に多いのであって、欧州とかで、こっちがアジア人だからどーの、ということを言ってくるのがいると、わしはまず「こいつ無知やな」と思うようにはしている。
(無知と言うか視野狭窄と言うか。)
 
とりとめもないんだが、話を最初に戻すと、だから外の情報をとりにいく、というのは非常に大事だし、とりにいけるかどうか、も結局は大事になってきてしまう。
視野狭窄になると、ちょっとの情報で、すぐ
「そうだ、そうだ!」
と、いったい何がそうだそうだなのかはここでは判らないけどw、何か結論が出てしまって、短絡的に物事が進みがちだ。 
 
ん〜、だからって英語をやろうね! という意味でもないw
いや、違う視点を仕入れるには、非常に有効だとは思うんだけど……うーん、やっぱこれはね、非常にでかい話なんです。
とってこれる情報そのものが違う、というのもあるが、外国語はやっぱり、ひとりの人間の脳のなかで、別の世界を形作ると思う。
多重人格、と言ったら大げさだが、ちょっと、近いものがある。
つうか、外国語がうまくなる真髄はあなた、ものまねですから。
どれだけ恥を捨てて違う文化の人たちの話し方をまねできるか、という点ですから。
 
まあ、文法的な理由における「別の思考」とか、その言語が発達してきた背景文化に絡む思考法の違いとか、外国語をやる、という話には、その他もろもろの要素があるんだけど、結論はないので今日はここで終り。
 
あ、で、えらそーに書いてるけど、イタリア語検定ずえんずえんだめでしたwwwwwwwwwww