時間をかける、以外に答えはない

あと一週間言語の話にお付き合いくださいw
 
エントリタイトルは今の自分への回答だ。
 
イタリア語を超熱心に勉強し始めたのは、検定があるからというのが一番の理由ではあるのだが。
 
しかし、もともとは「まあまぐれで受かればいいから」といういい加減さを基調として、まあでもちょっと勉強すれば受かる確率高くなるよね、という、まあもっとほんとのことを書くと(書かないけど)かなりおごった考えでいた。
ってか、勉強はそれなりにがんばるのだけれども、そしてほんと特に英語の試験だと(悪い点数が取れないから)心底ストレスを感じながら半分腹を立てながら(受けるのを決めたのは自分なのにw)、勉強をしていたのだった。
 
しかし今回、「何とかなる」ではなくともかく時間の許す限りがんばろうと思ったのは、多言語を学習している人たちのブログを読んで、みなさんがいかにがんばっているか知ったこと、そして、それらを読んで判ったのは、「時間をかける以外に上達の方法はない」ということ。
 
当たり前なんだけど、でも、ほんとに、私が読んだブログの方々の地道で真摯な学習の記録に、うん、ある意味心打たれたんだろうな、はっきり言って、そう、私は言語学習に関しておごった気持を持っていたから。
それが、「いや、違う、そういうありかたは違う」、と。
(これは自己否定でなく心を入替えるということね。)
 
私が読んだブログの方々が、講読のクラスに行ってイタリア語の小説を少しずつ読んでいるとか、検定1級合格の極意はこれだとか、いろいろ書いていて、いいなあ、私も、まあ1級は今のところ取る気はないけれど、でももともと「色んな言語でものごとが知りたい」というのが多言語学習の動機だから、例えば原語で小説を読むなんて一番憧れるところのひとつで、いいなあ、そんなふうになりたいなあ、じゃあなるにはどうしたらいいかな、ってえと、もうほんと結局努力するしかないのだよね。
 
もし私が何かに恵まれているとすれば、まあ先日耳について書いたけれど、そういう身体的なもの以外だと、勉強が楽しめるということだと思う。
ってか、振り返ると、学校生活も、ほとんどそれでもっていたようなものだと思う。
 
 
ずっと前から、英語以外をやって、やめて、また別の言語をやって、やめて、でまあ去年からは「多言語をきわめずに概観する!」と開き直ったけれど、それでも、渇望している自分の状況というのがあった。
その状況に到達している人たちのブログとかを読んでは、今の自分とその人たちとの距離に、いや、距離なんてはかっていなかったな、ともかく自分が彼らと違うことに焦燥感があって、それはなぜかと言うと、「私もこの人たちみたいになれるはずなのに現状は違う」という気持があったからで。
 
でも、さっき書いたように、彼らとの距離がどのくらいか、そしてそれを縮めるにはどうするか、ということがやっと視野に入って、とてもラクになったし、そしてまた、正直、もんのすごく幸せだ。
 
距離を縮めるには近道なんかないんだよね、ほんとに。
時間をかけて努力するのみ。
自分の望む到達点にいくまで、「げ、こんなに時間と労力がかかるのか!」と判って、びっくりしたけど、でもほんとによかった。
だって、自分で「時間かけて努力する」ことを選べばいいんだし、「努力すれば」、確実に到達点に近づくんですよ。
「努力する限り」、到達点に近づいているのは明らかなんですよ。
ならばやるしかなくね?
 
 
☆思い出話☆
高校のとき、数学の先生に、授業で生徒に問題を解かせているあいだ洋書を読んでいる人がいた。
しかもフランス語。
「すごい」と言っていたら、「このくらいできないとだめだよ」と平然と言われて、ものすごく感銘を受けた。
「英語以外に何か!」というのの原風景のひとつはこの先生だと思う。
(この素敵な先生の顔が志村けんをくずしたような顔だったことは書かないでおこう。あ、書いちゃった。)
 
ついでに、そうなんだよな、思えば、高校のときの先生は、なにげにすごいことを普通のことだと言っていたな。
国語の先生では、「高校卒業までに夏目漱石は全部読むくらいは当たり前だ」という人がいた。
でも、うん、ほんとはすごいことではないのかも知れないね、何か、↑の数学の先生にしても国語の先生にしても、昔のエリート学生を彷彿とさせる。
時代古いけど、戦前までの、「知」が一部のエリートのみに完全に集中していた時代の。
そういう時代では知識人はほんとに知識人だったから。
 
よく判らんけど、全人類の持ちうる「知」の量というのはひょっとするといつの時代も同じなのかも知れないと最近考えている。
そして、昔はほんとに一部のエリートにそれが集中していて、それ以外はほんとに(学問に関しては)無知だった。
(あくまでも学問に関して、ね。生活するうえでの頭脳ってのは別の話。)
しかし戦後、すべての人が均等な教育をほんとに受けるようになって、「知」が「一般の人」に少しずつ分散して、中間(?)のエリートが減って、ほんとにほんとにほんとに世界でも少数の「天才」と「一般の人」のあいだで格差がひろがっているような、そういう感じがする。
うまく説明できないんだけど、この感覚。