抜け出たかも知れない

非常にトリッキーな試しを。
 
私は結局、不幸でいたかったんだと思う。
ほんとに。
それから抜け出るための最後の試しは。
ロブ・フリンと不幸を共有するという事実に何を見るのか。
 
昨日、MACHINE HEADばっか聴いてて、こんなことを自分用の日記に書いてた。
 

私はまだロブの言葉でしか語れない。
てか、ロブがいる、という事実が必要なんだ。
それがなければやっていけない、というくらいに。
結局それは、私が私自身に価値を見出していないからだ。
ロブがいる、というのは大きな喜びでもあるが、しかしその重要性を少し見誤ってるような気がする、私は。
今見えている重要性は、本質が少し違う、そこに、ひとつのカギがある気がする。
それが……多分自分を全肯定することと関係がある。
ロブと(不幸な)宿命が共通する、ということがなかったら……そうだ、もしなかったら、私は自分の苦しみに全く価値が見出せなかっただろう。
共有してるから意味があった。

 
昨日はさらに、あらためて「The Burning Red」の歌詞を読んで、あのころ、まだきっとロブは自分と向き合うということを始めたばかりだったろうに、ものすごく力強い歌詞もいっぱいあって、衝撃を受けてた。
そして、自分はどうしてその力強さが持てないのか、考えた。
 
答えは結局、私は不幸でいたかった、ということだ。
ロブと、運命的とも言える符号で不幸な宿命を共有するということに酔っていたのだ。
(運命的な、というのは誕生日以外にも理由があるから。でももうきっと語らないと思う。でも訊いてもらえば答えるのは全然やぶさかではないです。)
上で、

ロブがいる、というのは大きな喜びでもあるが、しかしその重要性を少し見誤ってるような気がする、私は。
今見えている重要性は、本質が少し違う、そこに、ひとつのカギがある気がする。

と書いてるけど、まさにそうで、この時点で、私にとっての彼の重要性は、不幸を共有していることだった。
 
でもほんとはそれではいけない。
いけないってか、私はずっと、口では、彼のあとに続きたい、あの強さを見習いたいと言ってたけど、本音ではそんなことさらさら思ってなかったんだよな。
大好きなミュージシャンと不幸な宿命を共有している私。でいたかったんだ。
 
これに気づいてから、自分用日記に書いたこと。

不幸の共有を捨て去ってもさ、何も変らないんだぜ、彼が、ましへが、私にとって本当に重要で大切な存在だというのは、変らないんだぜ、魂入れて彼らを愛してきた自分の軌跡は変らないんだぜ、俺たちの歴史は変らないんだぜ、LPのときの奇跡は変らないんだぜ、そして、ここで私が不幸の共有に酔うことを捨てなければ、ってか、それを捨てることこそが、ロブが俺たちに示してきてくれたことじゃないか、そうじゃないか、いつまでも不幸の共有に酔ってんじゃ、ロブは喜ばねえぜ、ロブが望んでるのはそんなことじゃない。
 
そうだ、私たちが何かを共有しているならば……それは不幸を捨て去る軌跡のほうだ、昨日、私と彼の圧倒的違いを感じていたけど、それは、私が不幸にとどまっていたかったからにほかならない。ここから動けば……ここから動くことこそが、彼が教えてくれたこと、そうじゃないか。

 
抜け出たと思う。
かなりトリッキーだった試しから。
まだぶり返しはあるかも知れないが。
それでもからくりは見えたから。
 
 
私がお世話になっているカウンセラーの著書に、こういう文章がある。

心の中には、映画館があります。そこで上映されたことは、すべて実現されていきます。
(中略)
心の中に流れる決まった映画は、あなたの都合のよいように上映されています。好きな映画だけを上映しているのです。大概は、悲劇の映画です。悲劇を上映すると、自分はとっても価値がある人間のような気がするからです。

私はまさにこれだった。
しかし、本当に幸せになるというのは、以下のようなことだとこの人は書いている。

あなたは幸せになることばかりを想像できますか。あなたは幸せになったとき、もう不幸な話をするなんてことは、できないんです。それでも本当に幸せになりたいですか。答えが「はい!」なら、あなたは、今、(不幸の)中毒を癒すことができます。そしてハッピーエンドの映画が上映され、実現していくのです。
 
「天使にもらった贈りもの」/キャシー天野

じっくりじっくりじっくり、自分と対話してみるよ。
ロブと同じ不幸背負ってきたんだ、ということで自分に価値を見出しているのはほんと事実なので、こっから本当に離れることができるのか。
 
ってか……ほんとに、彼が語ってきたのは不幸じゃない、悲しみじゃない、その後の物語だ。
 
自分用日記に、今日最後に書いたことは以下。

彼の語った痛みと苦しみと不幸は、もう血の通わぬ物語であり、しかし彼の土台であり、これは彼は何度も言っている、あれがあったから強くなれた、と。
私はまえ、「ましへを聴くときに感じる感動のなかに、人生の真実があるような気がしてならない」と書いたけど、それはこのあたりのことだと思う。
いや、もちろん、この先、もっとすごい感動が用意されているという確信はあるが。
それはもちろん、仲間たちとともに。

あの世に行かなくても祝杯をあげる日は近いかも知れない。