葬りについて2

コメントありがとうございます、のちほどおへんじいたします。
 
以前、自分のなかの子供(inner child)を葬る、という話を書いて、確かにその作業も必要なのだけれども、子供としての自分を葬るのでは足りなく、結局私は、今の私自身を、葬ってやりたいのだろう、「女なんかに生れることになってほんとにすまなかった」と言って。
 
いや、これは本来ならば、「自分の女性性を忌み嫌ってきてすまなかった、自分が女であることを世界で一番なじってきたのは、そして受け入れてあげなかったのは自分だった」と言って光のほうへ進むべきなのだろうが、それがほんとの癒しなのかは判らない。
「目を開ければ闇/目を閉じれば光」はいまだ私のなかで生きている。
(↑はBUCK-TICKの"細い線"という曲の歌詞)
 
その「光」に進むまえに、私は、自分の根底にある、「生きる気力」に内在している、無力感と絶望、これらは私の体が女であることに100%起因しているのだが、これら無力感と絶望と向かい合わなくてはならない、それらと対話し、彼らがなぜ私の根底に存在するようになったか知り、解放しなければならない。
 
そういう意味では、「目を閉じれば光」は正しいのだ、自分の解放は自分でしかできないのだから。
 
 
以前大臣が「女は子供を産む機械」と言って批判されたが、「機械」は言いすぎにしても、実は私はこの発言は正しいと思っている。
女性の体は、子供を産むという高機能を実現させるため、それ以外のところが犠牲になりすぎている。
だから、まえに書いたように、子供を生むことに興味がなければ、女に生まれるのは悲劇でしかない。
あるいは、子供を持っても、それ以外で実現させたいことがあれば、やはり体が女であるのは悲劇なのだろう。
 
と言いつつ、世の中には、まあ例えば今話題の米国共和党副大統領候補のように、子供を生むこととそれ以外のことも実現させている女性がごまんといる。
「女は強い」と言うけれど、それは確かにそうなのだ、彼女のような人々を見ていると、ほんとにどれだけ強いのかと思う、そして、そうだ、私にはああいう強さがないので、違和感を感じるのだ、体が女だからってみんなが女性特有の強さを持っているわけではないけれど、ってか、判ったぞ、私の根底の無力感と絶望は、女は毎月大変なのよ、とか、出産の痛みを男性に与えたら死んじゃうのよ、とか言いながら笑っていられるような強さを持たないことと関係しているのだろう。
 
んで、そうだな、私は「女性的強さ」にもまた興味がないのだ。
そう、興味がない。
女性の属性のあらゆることに、「興味がない」。
↑で書いたペイリン氏のような強さなんて、別に持ちたいとも思わない。
「持ったら終わりwww」くらいに本音では思っている。
この、女性性への強烈な拒否感は一体何なんだろうね?
 
そう、これらを解き明かしにいくんですよ、今度東京行ったとき。
以前から自己表現とかそういう分野で解き明かしをしてもらってるんだけど、今回はガチで、性別について。
 
 
とりあえず、こちらで書いてきたことに理解を示してくださったみなさん、そしてまた、「君が君らしくいてくれるのが一番大事なんだから」と言ってくれた親友に感謝します。君の苦しみもまた、近い将来に癒えることを祈る。