表面上のコミュニケーションの流儀

恐らく根底には共通するものを持つと思われるのに、表面上のコミュニケーションの流儀が違うため話が通じない、ということがある。
非常にもどかしいが、コミュニケーションの流儀は重要な入口でもあるので、軽視できることでもない。
 
私はよく、同じ言語を使ってさえいれば話が通じるという現象は不思議だと考えている。
日本人の場合、日本語であれば、言われていることの辞書的意味は理解するであろう、しかし、頭のなかで相手の言うことが「クリック」するかどうか、というのがほんとに「わかる」ということであり、そこまで考えると、同じ日本語を話す相手の言っていることがどれほど「わかる」のかには疑問符がつくことが多々ある。
 
そして、人とのやりとりというのは、表面上の言語だけでなく、最初に書いた、コミュニケーションの流儀というものがそれぞれあるので、そこがかみあわないと難しいし、おそらく、私が不思議だと思うこと、日本語さえ話していれば相手と通じ合っているのか、というのは、ほとんどこの、表面上のコミュニケーションの流儀の違いがあるから感じるのだと思う。
特に私は得意な流儀がとても限られているので。
 
今日は、自分が、いかに狭い流儀の守備範囲しか持っていないか痛感させられた出来事があり、これを書いている。
私が投げた質問に相手が答える、私ははぐらかされたと思った、しかし、相手は私の質問に「その人の言語で」答えたのである、しかし、私にはその「言語」が通じなかった。
(ここで言う「言語」は「コミュニケーションの流儀」。)
そこで、横から別の人がもうちょっとつっこんで解説してくれ、私はようやく私が質問を投げた相手の、本当の答えを理解した。
相手は全く真摯に答えていたのである。
 
あの言語が理解できなかったのは、本当に悔しかったし、自分の限界を感じたが、音楽の世界に心寄り添わせると決めた以上は、個人的感情を排除して今回のことを糧に変えるしかない。
と、言うか、非常によい体験だったと感じている。
あれは目の覚めるショックで、私はもう一度自分の方向性を考え直す必要があるのだろうが、やっぱり今はここにかじりついておこう、この悔しさを何かに変えようという意欲そのものが、私の理解したい「別の言語」を使う人々の原動力だからだ。
(そこまではよく理解している。)
 
……最後、いつも通りおとそうと思ったが、眠い、自分が落ちます ノシ