何か何か、へんだ

何か何か、へんだ。
ひとつひとつ、特に心動かす必要もなくやり過ごせていけそうな出来事に、いちいち反応している。
何かの過渡期に入っていると思われる。
 
私のなかの価値観に、敏感で感受性が強いのはよいことだ(悪い言いかたをするとほかより優れている)という価値観がある。
しかし同時に、感情の振れ幅が大きすぎることは、何にでもすぐ感情が反応することは、悪いことだという価値観もある。
 
私はずっと、自分が後者であること、感情の振れ幅が大変大きいことを恥じてきた。
そしてまた、前者に関しては、私がそんな、感受性が強いなんて恐れ多い、そんなの芸術家さんたちの資質でさあ、私なんていや全く鈍感でしてえへへ、と自分を卑下することで否定してきた。
 
それでいて、感じやすすぎると言える人のつくるものにしか共感できないのは明らかな事実だった。
"Wish I couldn't feel"と言うレイン・ステイリー
"I curse this gift"と言うジェリー・カントレル
"I hate me for this weakness"と言うロブ・フリン
 
 
しかし、思えば、苦しみを吐露するのは、方法を間違えると安っぽいことこのうえない。
自己憐憫だなんだという域を出ない歌詞だとか詩だとか小説だとかは、安すぎる。
そしてほとんどの「表現者」希望者が、この安さの域から出ることができない。
その理由の考察はまたの機会として。
 
私は、自分の小説が安いことを知っていた。
自分がずっと、安くしか書けない状態であることを知っていた。
 
なぜかと言うと、常に自分から逃げて書いていたからだ。
自分を直視することができなかった。必ず、登場人物に自分の荷物を背負わせるという方法で書いてきた。
しかし、どだい、自分を直視せずに自分の苦しみを表現するのは無理な話、それが私の文章の安さの原因だった。
とは言え、「外」を意識すると、自分の苦悩は他に転嫁せざるを得なくなる。
前も書いたが、文章なんてのは自分の脳内さらすのと同じことであり大変恥ずかしい。
脳内だけでも恥ずかしいのに心までさらすとなると、たぶん普通の感性では不可能だ。ある意味マゾ的でもある。
まあマゾは置いておいて、ともかく、外を意識するときに生じる制限、それが、私にとって小説と言う方法がとてもトリッキーであり続けた理由なのだが。
 
しかし、考えてみると、私の共感する表現者の人々は、恐らく外に向かって書いてはいない。
彼らの内側で完結したものを結果として言葉につづっているに過ぎない。
だから逆に受け手の心を動かすのだと思う。
 
 
まあ、最初の話に戻って。
今はへんな感覚なのだけれども、これはよい変化なのだという確信がある。
私は、自分がひとより敏感であることをもう否定しないので。