尾崎の言葉の使い方でも吟味してみるかなあ

高校に入ったころ、尾崎豊のファンであることを親などにあまりに強烈にアピールしたため、いまだに追悼番組があると「やるよ」とか教えられる。
いつもはスルーするんだが、今日は、さっきまでBOOWYを聴いてたことだし、18、19年前を少し近く感じてるからか、何か観る気になって観ている。
  
自分が尾崎を聴かなくなったのは、彼が亡くなったちょっとあと、自分が19、20歳のころからなんだが、思えば、尾崎は自分内でのリバイバルが全然こないなあ。
音楽的には、いい曲はけっこうあるとは思うのだが。
が、何せ音楽は波長の問題なので、ぴんとこなければ私はいっさい聴かない。
 
ってか、何だろうなあ。"15の夜"とかもすごくいい曲だが、あまりにシンボル化されすぎてるような気がするんだよなあ。
もうよくも悪くもただの音楽じゃないよなあ、っていう。
 
今聴いてもぴんとくるのは、多分"路上のルール"とか"Driving All Night"あたりではないかと思う。
これらの曲は、歌詞もたぶん、中二病まるだしでなく、社会で生きてくなかでのふとした孤独、自分だけと向き合う時間、そういうものを扱っていたような。
 
歌詞に関して言うなら、もちろん基本は中二病だけれど、言葉の使いかたなどではやはり注目に値するのではないかと思う。
 
わたくしごとだが、先日中またちょっと歌詞対訳の仕事をやって、ほんとに辛いんだよね、歌詞対訳って。やってると。
当たり前だけど、好きじゃない曲も、意味不明な曲も、訳さないといけないんですよ?
それでもやってると、半分おかしなハイ状態になるんだよね。
で、できたものを通して読んでみるとさ、自画自賛だけどさ、ちゃんと流れてるわけよ、言葉が。
過去に訳したものもちょっとみてみたけど、明らかに「この人、歌詞対訳が大好きなんだろうなあ」って感じの出来なんだよね。
質が高いってより、「好きなんだろうなあ」って感じ。
でも、やってるとすごく辛いんだよね。
何なんだろうね。
まあ何が言いたいかと言うと、やっぱり歌詞の吟味って方向から、自分は言葉にアプローチすべきなんだろな、ってことで、この休みはちょっとまとめて色んなアーティストの歌詞の読み直ししてみるかな。
 
今日は自分語りで終了。