迂回しまくりの「おめでとう」

会社にいると、たまに隣の部の部長が電話で英語を話しているのが聞こえる。
 
気になるのが、相槌だ。
5秒に1度ほど英語風相槌、
「あーは」
とか
「んーふ」
が聞こえ、私はちょっぴりむずがゆさを感じる。
 
外国語を話すとき、別の人格が現れるとか言われるが、これもその一種なんだろうな。(ただ実は、英米人はそれほど相槌は打たない。電話でも、あの部長ほどは打たないな。)
ま、ともかく、彼が英語を話してるとき、日本語を話してるときとは違う彼になってることは間違いない。
違う自分になるから、ジェスチャーとかも変ってくるんだよな。これは自分の体験だけど。
無言で肩をすくめる、とかさ。
 
外国語を話すというのは、「その言語を話す人たちの真似をする」という面がある。
この真似ができないと、けっこう辛い。
私の翻訳者仲間のひとりは、かたくなに「英語を英米人のように話す自分」を演じるのを拒んでいた。相槌で「んーふ」なんて言うのは虫唾が走る、と言っていた。
 
今は何か、この仲間の言ってたことが判る気がする。(って隣の部長がイタかったからではありませんw)
「英語を話す自分」と「そうでない自分」があるとしても、別に「英語を話す自分」を「英語を英米人のように話す自分」にする必要はない。
ジェスチャーは、意味が込められているので言葉のひとつと捉える必要があるが、それ以外は別に、英米人らしくする必要はないのだ。
 
別に英米に憧れるな、と言ってるわけではなくて、英語を話すからって英米に同化する必要はないってことね。
憧れと同化の区別はいま日本では曖昧だし、「西洋かぶれ」なんて言葉は、同化の滑稽さを揶揄したものだと捉えているのだが、揶揄された方は、憧れさえ否定するのか、と腹を立てる。
そうじゃなく、憧れは否定しない。けど、元来異質のものに同化しようとするさまは、見ていてカッコイイものではない。ってことなんだよな。
 
最近、「英語を話す自分」と「日本人としての自分」が、完全に区別できるようになってきた。
これは、英語を話す人の話だけでなく、例えば、西洋の音楽が好きだ、って場合も当てはまる。西洋の音楽が好きな自分も自分、日本人としての自分も自分。そしてこのふたつは共存するのに同化しない。これでいい。
このへんがしっかりしてくると、日本人として西洋の音楽を演奏し、そのうち西洋では発見できないようなものを作り上げるようになる。
 
ってことで、祝・SONIC AGITATION復活。