過去に見ていた幻影を追え

ここしばらく、昔自分が書いた小説もどきや日記など拾い読みしておるわけですが、小説はすごいよ。
今日は、ずっと自分の中ではなかったことにしていた方面の作品を読んだんだけど、長編のやつなんて、今でも使えるかな、と思ったのは、主人公Aのせりふのひとつ、
「あのー」
だけでした。
主人公Aが主人公Bのある独白に呆れ、白けたまま「あのー」と反論開始するという、ここだけ。
これはこれですがすがしいよ、これが成長というものだよ。昔書いたものに全面的にダメ出しできるという。ね。否定するということではなく、こう、「これじゃあだめだよ、君君君ィ」と、「君」を「ちみ」と発音しながら偉そうにぬかせる、そういうダメ出し。
 
ところで、こうして、以前バカみたいにもの書いてた頃からそれこそ10年近く経って、実によく判ることというのは、やはり書いた時点で自分の気持ちが入り込みすぎたものは、あとになると読めない、ということだ。
それもいいじゃない、という意見もあるだろうけども、やはりね、性格にもよるが、入り込むなんて誰でもできるんですよ、だけど、入り込みながらも必ず客観的な視点を保持していないとね、まさしく溺れてしまいますよ。まさに、作品に作者が溺れてるのが手に取るように判るよね、そういう作品は。
で、同じような時期に書いてた作品でも、自分が空想した世界に自分が溺れていない、あるいは自分の救済のために書かなかった作品、自分を一切投影しなかった作品ってのは、今でも読める。純粋に、その世界が楽しいと思える。
 
過去に、書きながら自分が溺れてしまった作品の中に見ていた幻影は、そりゃ自分が何ヶ月、何年ってかけて書いたわけだから、今でもそれがどう見えたかはほとんど覚えている。
が、技術的・才能的な問題でそれが魅力的に表現できていないという点を差し引いても、今でもその幻影に入り込みたいかと言うと、全くそういうことはなく。
むしろ、あ〜この段階は「完全に」自分は超えられたんだなと、もうあの幻影は不要なんだなと、嬉しく思った。
 
ま、今自分のいる段階は、例えば先日読んだ町田康の小説に出てくる、

まったくもって、偉人のぼけはなにをさらすのであろうか

なんて文章を一人でつぶやいてしまう、そんな段階であり、それはそれでどうなのだろうって感じだがね。
 
何か眠くて何書いてるかよく判らんくなってきた。
わしが現実に戻ってくるまで、もうしばらくお待ちください(笑)。