ブログとついった

最近ちらちらと自分のブログ読み返してるんだけど、基本的に笑えるな、おい。
(って前もちらっと言ったけど。)
 
一時期、自分の文章を読み返しても理解できない時期があったんだけど、って言ってもやっぱ今でも真面目に悩んでたころの文章は読み返せないんだよね、あんまり。
 
でも今日、真面目なもののうち、読めそうなものだけ少しだけ読み返してみたが、ま、ほんとに、「越えた」とか言ってはまたすぐに闇が来て、みたいな、めっさ繰り返しだったな。
 
まあ別にこんな辛い時期の思い出話をしに来たわけじゃないんでこの話はやめよう。
(でも2008年のMACHINE HEAD祭あたりはそのうち読み返したい。)
 
笑えた、という話に戻ると、いくつか笑えたオチを持つ日記があったが、そう、オチに気をつけていたんだよね、昔は。
だからたまに
「今日はオチはありません」
とか書いてあるw
 
 
まあ今日は真面目な話をする気はないんだけど、ついったについて。
相互フォローしてた人のうち、ある界隈では有名な人がいて、その人のブログを先日読んだんだけど、すげーんだよ。
でもさ、その人もついった始めてからブログ書かなくなっちゃったんだよね。
ああいう、長い文章で、論理立てて物事が説明できる人が、文章書かないのはほんとにもったいないな、と思って。
 
ブログとついったを両立してる人もいて、そういう人のは「おお」と思いながら読みに行っています。
どっちももちろん気が向いたらやるものなので、特にブログに関しては別に頻繁に更新されてなくてもかまわない、でも、長い文章が読めると嬉しい。
 
ついったは思考の流れる様(さま)をそのままに書き残せるという側面があり、トゥゲッターとかはほとんどチャットのログみたいな感じで、「やりとり」の記録という側面もある。
その点では優れていると思う。
 
でも時間を食いすぎるという難点がある。
だから、ブログ書いてほしいなあ、とわしが思う人たちも、時間がついったに取られちゃってるんだと思うんだよね。
 
ついったはついったで、全然否定する気はないんだけど、でも、この何年か、「論理立てて」文章を書けるという意味で優れた人たちの言葉が、ついったの、まさに時間の本質を体現するかのような「消えていく」空間に、ずっと流れ込んでいっている感が、最近イメージとして感じられるようになって、まあもちろんログとってる人もいるとは思うんだけど、テーマで分けたりできないじゃないすか。
 
だからさ、何とか、トレンドが変って、ってか、ついったはついったで続くのだけれども、長い文章を書く場に、そういった人たちが戻ってきてくれたらな、と考えたりする。 
 
 
どーでもいいが最近読み返してて一番ワロタ日記にリンクを貼って何とか仕事にとりかかりたいと思います。
(今(22:30過ぎ)から仕事かよ!>自分)
 
http://d.hatena.ne.jp/kreutzer/20051001