これもまたひとつの転機

たまには明るい話でもしようや。
 
この半年ほど、BSでやっている「京都迷宮案内」というドラマ(地上波の再放送)で毎週癒されていたのだが、わたしゃもともとテレビはほとんど観ない。
 
しかしこのドラマでちょっとテレビに対する「ケッ」という拒否反応が減って、で、そんなある土曜日、帰宅したら、男子学生がちと古臭い店でたむろしてる、一見「木更津キャッツアイか?」と思われたドラマがテレビでかかっていて、夕食の準備を手伝いながらチラ見していたら、登場人物のあるひとりにとても目をひかれた。
「うわあ……」
と彼から目が離せなくなり、んもうあまりに姿かたちと役どころがカッコイイので、テレビに詳しい母親に、
「この俳優は誰だ」
と、こんなこと訊くのはまじで久々であり、そのくらい、んもうこの放映1回だけでメロメロ(死語)に惚れてしまったキャラクター。
 
ドラマは「タンブリング」って、男子新体操の青春もので、私は暑苦しい物語が大好きなので、ドラマ自体にもすっかりはまっている。
惚れこんだキャラクターは木山って学生で、演ってるのは大東俊介って人。
ネットで検索したらブログが出てきたけど、ブログでの写真はドラマと違いすぎてびびったw
 
ドラマでは、ちょっと反町隆史系、影のある系の顔なのだけれども、ブログの写真は、小泉孝太郎みたいで、全然苦労してない可愛い坊ちゃんって感じになってるw
(もともと反町と小泉は顔立ちは似てると思っていた。)
ま、ドラマではメイクとかしてると思うが、こんなに顔つき変るんか、とびびった。
掲示板でも、
「え、木山って、うぇるかめ(?)に出てるへんなやつと同じ役者? 木山と違って全然イケメンじゃなかったから判らんかったw」
とか言われていた。
 
初めてドラマで木山を見たとき、ちょっとびびるような目をしていた。
過去のある不良学生、という(よくある)役どころなのだけれども、ちょっと、あの目だけは、ドラマの趣旨の「青春!」からかけ離れた、ヤバイ目であった。
よい役者だと思う。
 
と言っても私は木山というキャラクターのほうに惚れこんでいるので、大東俊介の出ているほかの番組(何か夜のトーク番組にも出ているらすい)を観ようとは思わないが、「タンブリング」を作っているTBSは、このドラマにそうとう力を入れてるらしく、ノベライズはされるわ、マンガにはなるわ、さらには秋には舞台もある。
で、主役がこの木山!
ってことで今のところ東京に観に行くつもりw
 
ついでに役者の話をすれば、同じく「タンブリング」で主役をやっている山本裕典もまた、ひっじょうに表情がいい。
あとで、映画「ハンサムスーツ」に出てくるちょっとハーフみたいなモデル役の男性だったと知るのだが、「ハンサムスーツ」でも躍動感のあるオーラがあった。
 
ジャニーズがいちがいに悪いとは思わない(才能ある人もいっぱいいると思う)が、ジャニーズと関係ないところで、こうやって若いいい役者が出てくるのは、何かわくわくする。
 
 
ところで、私が何かに惚れるときは、必ず「自分がああなりたかった」の裏返しなので、もちろん木山も、そういう願望から、惚れこんでいる。
 
で、そのへんと、ほかにも、自分のなかのあらゆる要素が反応しあって、最近とても悲しいことがあったにもかかわらず、それと共存して、ものすごく、「I'm alive!!!」な感じになっているのも事実。
 
この「タンブリング」ってドラマに出会って、そして、脚本書いてる人やノベライズしてる人が女性だってことに気づいて、これまで自分のなかでこだわったりうじうじしたりしてたことが、どうでもよくなってきた。
 
そしてまた同時にそれは、以前ちょっと書いた、「脳内で生きる」こととも絡んでくる。
私は現実ではどうしても男になれない、けれど、脳内でならば好きなだけなれるし、脳内で生きることは、実は人間として生れて、身体的に何らかの制限があっても(女性に生れるというのはそれだけで身体的制限があるという考えは変らない)、そこから「自由」である証なのだ。
ってことを教えてくれたネット友達や、何かいろいろに、日々感謝感謝なのである。
 
 
「脳内で生きる」は私の場合イコール創作活動なので、今日はここまで書くまいと思っていたがついでに書くと、やっと、
「届くべき人に届けばいい」
という、創作の目的の本質が、判ってきた気がする。
 
過去、私はあまりに人からの批判を恐れて、何を書いてもほとんど人に見せないようになってしまった。
(学生のころはけっこう人に見せていたけど、大人になってから外に出せなくなった。)
 
批判されたくないので「うまく」書こうとするし、「こうするとこういう批判をされるからやめよう、でもああしたらまた別のつっこみが……」とかいう縛りいっぱいのなかで書いていた。
結局、ええ格好しい、ってこった。
 
でも、うん、ほんと、ひつこいがこの「タンブリング」との出会いはでかいね。
制作陣がどういう思いを持っていたかは判らないが、彼らの作ったものが、なぜか私には「届いた」んだ。
で、批判はあっても、届くべき人だけに届けばいい、と言うか、だからこそ創作活動は尊いのだ、とやっと気づけたと言うか。
 
目的が「うまく書こう」とか「評価されよう」だと、作品に対して、どこまでがんばるかってのが、結局「自分」基準ににあって、いや、別にそれでいい作品作ってる人もいっぱいいるんだとは思うが、私にとっては、そういう動機は嘘だった。
だから、書くことが何よりも好きなのに何かを書こうとするとお腹を壊したり、ええ、過去は色んなことがあったんどすw
 
でも、「届くべき人に届けよう」というのが書く動機になれば、「どうすればより届くのか」を基準に、どこまで作品に対してがんばるかが決められる。
 
こんなこと言って、結局もう小説なんか書かない、ってことだってあるかも知れないが、そうだって別にかまわないw
 
今はこういうツールがあるから、思っていることは手軽に公開できるし、そういう範囲で届く範囲でも、やっぱり「届くべき人」には届いているのだと、そう思って、今日も脳内でいろいろ想像して、にやにやしながら寝る。