音楽の自由、言葉の不自由

たぶん人間、ほんとに大切なことは言わないほうがいいのだと思う。
その大切なことを、人とのコミュニケーションの捨石にする覚悟があるなら、いいのだが。
 
今日は久々に自分のなかにある「御しがたい思い」を目覚めさせるライヴだったと思う。
結局、私の苦悩の大本は、果してこの「御しがたい思い」を抱えたまま生きていけるのか、ということだったのだと思う。
私にとって音楽は思いそのものなので、演奏する側、作曲する側に同じような、深い思いの吐露を感じ取ると、それを「表現」しながら生きていける彼らが狂おしいほどに羨ましく、また何をどう転がっても彼らのように生きられない自分の所在なさに空しくなるのだった。
 
音楽がいいのは、恐らく演奏する側としては音楽に込めるのは彼らにとってほんとに大切なことなのに、それが言葉でないがゆえに、誤解されず、安くならないことだ。
彼らの思いは、ただフレーズとして、メロディとして、音色として、響きとして、時間軸のなかでは立ち消え、同時に聴き手のなかでは感情を喚起する。
歌には歌詞が必ずあるけれど、それは聴く側は無視することができるので。
 
だからほんとは、言葉でないともどかしいとか、論理性がないと納得できないとかいうのは真実ではない。
人間の表現方法のなかで、言葉がやはり一番不自由ではなかろうか。
 
だから私は――ただ単純にミュージシャンが羨ましいのだろう。
言葉でない表現方法を持つ彼らにある自由。
人間なら誰もが日常的に操る言葉なんて表現方法しか持たない私は最初からやはり翼などなかったということだろう。
 
あ、いや、別にそれでいいんです。
悩んでるんでなくて、慰めてほしいのでも決してなくて、音楽を聴きに行くと感じる狂おしさは一体何なのか、知りたかっただけなので。
 
 
ってことで今日はSPANAMを観に行ったのだが、SPANAMはもちろん期待を裏切らぬステージを見せてくれ、↑で書いた「御しがたい思い」を私のなかにまた喚起したのは彼らであったが、彼らの前に出た、大阪のDOGMAというバンドが、これまたものすごく。
CDを2枚売ってたけど2枚とも買ってしまったくらい気に入った。
http://dogma.vc/
ま、いかにも私が好きそうなタイプの音と歌ではありますw
 
寝よう。