孤独に関する一考察

最近、たまにひとりの老後をシミュレーションしている。
老後と言っても、まあそんなに長く生きるつもりもないので(あくまでも希望)、本音としては50才、でもまあ、周囲との兼合いを考えて、しかたなく70くらいまでを想定しつつ。
 
いろいろあったり考えたりした結果、あるときから、ふっと、つきものが落ちたように、結婚に興味がなくなってしまった。
それまで、どっかで、結婚できないのは恥ずかしい、と自分を縛り卑下していたんだけど、実は、根底では、興味がなかったんだ、と気づいたときの爽やかさ。
 
もちろん結婚否定論者ではないので、するときはする、とは思っているのだが、結婚のいいところと悪いところ、一生ひとりのいいところと悪いところ、天秤にかけたら、ひとりのほうがいいと結論を出した、ということもある。
 
それは、自分の決断に責任を持つということに近く、この(現時点での)決断の先にある負の面は、しっかり受け止めていかなくてはなあ、とか考えている。
 
ひとりっこというのもあり、ひとりでいるのは完全にデフォ設定なので、淋しい、という感情はあまり判らないのだけれども、しかし、そうとばかりも言ってられない弱点も自分のなかに認めていて、その弱点は大丈夫かな、と探っているようなところで。
 
ゆうべも、家路につきながら、あまり精神状態がよくなく、何となく、母親と何でもないような話をしたいな、ということを考え、うーん、ほんとにひとりになったら気晴らしに人と話すという逃げはできないんだぞ、それを60とか過ぎてから受け止められるかな、とか考えていた。
 
しかし、まあ、私は心の平穏を求めすぎるせいでひとを排除しがちになるのであり、そうなのであれば、やっぱり、孤独がどれだけ地獄だろうが、平穏乱されることと天秤をかけて孤独を選ぶのならば、絶対逃げてはいかんと思う。 
 
と言うか、そもそも、孤独なんて、背負うもんではなく、内に抱えるものだと感じている。
内側に、何か、空洞のような何か、そしてその真空ぶり、無音ぶり、そういうのを感じて、しみじみ、これは生まれながら抱えてきたものであるから、今さら外部とのかかわりにおける孤独でじたばたするなよおい、というような。
 
この、内に抱える孤独について気づいたときは、なぜかとても穏やかな気持ちなったのを覚えている。
 
たとえかけらであろうとも、自分のなかの真実にたどり着けると、ひとは穏やかさを感じるのだと思う。
 
ということをGARGOYLEを聴きながら書いていることに一縷の救いがある! と勝手に思って宝くじの当選番号をチェックしやうw