hide Memorial Summitを途中まで観て3

Xの、Sugizoが出てくる前まで観た。
 
判ったのは、私単体の事柄としては、私はhideがソロになってからファンになったので、Xで弾いているhideを観るのは今回のWOWOWの放送が初めてだったことが大きかった、ということ。
 
だから、2日間のイベントにおいて、hide with Spread Beaverが1日めのトリであったことが、納得できなかったのだと思う。
そっから、「違う」が起ってしまった。
 
 
今日の最初のエントリに、生者にとっての意味づけ、というようなことを書いたのだけれども、結局、生きている限り、何かはせねばならん。
止まった人と、これからも動き続けなければいけない人たちの、ああいったイベントでの融合というのは、いやでも、止まった側の人の時間が、本当に止まっているのだということを認識させられる。
その認識のしんどさが、Xで弾くhideを初めて観る違和感(慣れてないということ)と重なって、色々渦巻いた。ベクトルが、生きている側、今のXに向いた。
 
止まった人の、かつての動く姿と出す音(Xでもhideのギターの音は確認できた)を感知するにつけ、どういう形であれ生者は何かをせねばならんことを認識させられ、それぞれ生きている人たちが止まった人にどういう意味を重ねるか、また、それぞれのこれからの行為を止まった人とどう関連づけるのか、それが常に憶測と批判を生むのであり、特に、Xは(ファンを含め)集団として大きいがゆえに、また、社会的影響が大きいがゆえに、門外漢、部外者が好き勝手書く、ということが出てくる(←私自身の自嘲も含め)。
 
また、そこに死者が絡むことで、それぞれの思考と感じ方に必ず死角ができる。
今日の私の死角は、自分の本当の戸惑いがどこにあるか、だった。
それが見えなかったゆえに、違和感の元凶をXと定義した。
で、違和感の元凶は、実際は、さっき書いたように、Xで弾くhideを初めて見たことと、彼が止まった人である現実を10年経ってつきつけられたショック、これが重なったことだったわけだが。
(そうなると、私自身も、このイベントの映像を軽々しく観るべきではなかったと思う。あるいは、衝動的にここに書くべきではなかったのだろう。が、書いたことは仕方ない。)
 
 
……思えば、「掘り起こす」ということなのだろうな。
死者のことは、彼らを愛していた人たちなら、忘れることは決してないが、彼らについて語ること、そして、さらに、今回のイベントのように、彼(ら)を映像と音でよみがえらせること、それは「掘り起こす」ということで、そのときの動揺は、多分自覚しているよりずっと大きい。
それが、さっき書いた「死角」を生むのだが、それぞれの死角が異なるから、一回ぶつかると、ことが大きくなる。
また、それぞれの思いが強いから、ことが大きくなる。
 
 
今日は森山直太朗センチュリーホールに行ったが、死者を想うと思われる歌が多い彼のコンサートを観ながら、かつて一度だけhideちゃんのライヴを観た同じセンチュリーホールという場所で、今日観たsummitの映像を思い出してた。hideちゃんの姿をね。
 
結局あれだ、私はhideをXと絡めて考えないほうがいいということだな。
 
それが、ソロからファンになった、ということなのだと思う。