「犬」はいい意味かよくない意味か

クオリア(質感)、という問題がある。

哲学的な何か

クオリアについて、(1)(2)(3)と説明されているが、つまりは、

たとえば、ボクが、赤い色のバラを見て指さす。
みんなが「赤色」と答えたとする。
 
この時、ボクを含めた全員が、
「赤という質感(クオリア)を感じている」ということになるが、
ボクが感じている「赤色のクオリア」が、
みんなと同じであるかどうかは、確かめようがない。

ということだ。
 
この疑問の迷宮には、私も高校の頃に入りこみ始めたことがある。
↑の引用のようなことを、現国の教師に言ったら、
「確かめるまでもなく同じに決まっている」
と言われたので、私の頭がおかしいのだと思って、考えるのはやめたが。
クオリアの提唱は1990年くらいらしいから、私が高校時代につきつめて考えて学会に発表していたら今頃私は哲学者だ。←www)
 
 
最近はこれの言語版を感じてしょうがない。
(↑の(2)に近いことは書かれているが。)
しかし、この話は、絶対1億%ひとに理解してもらえない、と言うか「やはりこの人はおかしいのでは」と思われると思うので書けなかったし自分が感じていることを説明することもたぶん不可能なんだが、何と言うのでしょう。
 
最初は、ネット限定だったんだよね。
ネットやメールでひととやりとりするでしょ。
で、それが会ったことない人だと、
「ほんとにこの人が使っている日本語という手段は私の日本語と同じなのか」
とか思うわけ、例えば
「お元気ですか」
という文面を読んで、私はこれを
「おげんきですか/ogenkidesuka」
という発音で読むけど、これを書いた人は、ほんとは違う発音で読んでるんじゃないか、とか(方言という意味ではない)。
その人も
「おげんきですか/ogenkidesuka」
と読んでるのは頭では100%判ってるのですよ、でも、実際に会って、発話で「同じ日本語だ」と確かめるまで、「違うかも」と思っちゃうんだよね。
 
で、これが最近、ネット限定じゃなくなってきた。
例えば、↑のような疑問ののち、初めて相手と会って、フツーに日本語で会話したとしても、あとから、
「日本語だったよな、日本語だったよな。私と同じ日本語を話すんだよな」
と思うわけ。
それとか、日本のどの地域に行っても、みんな同じ言語を話してる、という事実が、すごく不思議に感じるんだよね、テレビでどっかの中継があるたび、「○○という地域でも日本語か」とかいちいち思ってんの。
 
 
ひとつ思うのは、他人に、自分と同じ言語セットが組み込まれている、というのが不思議なんだと思う。
細部では違う部分もあるかも知れんけど(方言や言語センス、読んできた本や知識によって)、でも、基本セット、と言うかシステムは全く一緒なんですよ、不思議だよね。
 
 
しかしさ、クオリア(質感)ということに限定するとさ、まあ言語では質感とは言えないな、個々の言葉の持つ意味、が質感にあたるのかも知れないが、だってね、私が
「頭が痛い」
と言ったとしても、それは表記上/発音上は
「あたまがいたい」
を意味する、てか表すけど、それイコール、私が
「自分には頭痛がある」
という意味で言ったという証明できないでしょ、私の中では「頭が」が「体が」を意味し、「痛い」が「だるい」と設定されてるかも知れない。
 
そんなバカな、と思うかも知れないが、しかしですよ、例えば、「本」の意味を二者間で確かめるとしましょうか。
本を指差して、「本だよね?」と確認しあう、両者の中で、綴じられている紙の集合体を本と言う、という証明はできたとしてもさ。
その、そこにある本は、ほんとに本なの? というのは証明できないよね、自分の目に映るある物体、それが綴じられている紙の集合体であるという認識は自分の中ではできても、相手の目にも全く同じものが映っているという証明はできないよね?
 
だから、厳密に考えると、ひとつの単語が複数の人間の間でまったく同じ意味で設定されてるとは証明できないんですよ。
もちろん、通常はかなりの確率で設定は同じなんですよ、しかし、ここでまた質感の話をすると、言葉の場合、さっきは意味を挙げたけど、単語の持つクオリティとか感情価値もあるんだよね、例えば「優雅」という言葉にはよい感情価値が付加されていると思うけど、それが全ての日本語話者のあいだでそうかと言うと、証明はできない、あるいは、例えば、「犬」という単語に関して、犬好きな人は好ましい感情価値をつけるけど、犬嫌いな人は否定的な感情価値をつける。
そういうズレを中心にひとつの言語を考えると、自分の発話が本当に相手に自分の意図通り通じたかは証明できない。
 
ってなると、ちょっと普通の話になったな(汗 よかった。
 
 
ちょっと話ズレるけど、例えばヤンキーとかさ、HIPHOP系の人とかさ、どんだけカッコつけたりいきがったりしてもですよ、口から出るのは、
「あ、そうですか、すんませんすんません」
とか、デフォルト設定が妙に丁寧で腰が低い日本語という言語なわけだよね、それも何か違和感があるんだよね、彼らには彼らにしか判らない言語があっていいと思うのに、とりあえずは、彼らの会話が、私にも理解できちゃうわけですよ? 背負ってる文化が全く違うのに。
 
 
まったくうまく説明できないけど、これはたぶん「言語は世界だ」という価値観からきているのかなー。
ひとつの言語は、ひとつの世界だと思うんだよね。
でも、同じ言語を話しても、世界が違う人がいるでしょ、そういう場合は、言語はただの伝達手段でしかないのだろうけど、どうも、そういう事実と、それでも共通言語を話す人には共通世界があるはずであるという私の考えが衝突するから毎日「この人も日本語!」とか思ってるのかなー。