ファンが萎えるわけ

これまで何度か書いてるけど、私はかつてTHE MAD CAPSULE MARKET'Sがけっこう好きだった。
ライヴも地元に来れば必ず行っていたのだけども、初期の代表曲のひとつである(と私が勝手に思っている)"だんだん"を演らなくなったのをきっかけに、行かなくなった。
アルバムも、「DIGIDOGHEADLOCK」で離れた。
好きになった時期は「Park」のころだったが、さかのぼっていった結果、初期の路線のほうが好きで、もともと、「Park」自体はあまり好きではなかったし("High-Side"は好きだった)、「4 Plugs」も、数曲をのぞいてだめだった。
それでもライヴを追っていたい魅力が、当時のMADにはあったのだけども、問題の「DIGIDOGHEADLOCK」で、ああ、もうだめだ、と思った。
 
今考えれば、このバンドはもともとYMOの影響も強く受けているので、デジタルな方向にいったこと自体は不自然ではないのだけども、発売当初はどうも、「これからこういうの流行るよね。俺たち、ちょっと先取りしとくから」みたいな小ざかしい感じが感じられ、ファンをやめた。
 
 
もうひとつ、友人の例を挙げると、友人の石塚(仮名)はGLAYのファンをインディーのときからやっていた。
が、"生きてく強さ"という曲が出た瞬間に、冷めたと言う。歌詞の不自然なポジティヴさに、「あ、この人たち売れようとしてる」と感じたのが理由らしい。
 
とまあ、こちらが感じたことと言うのは、もちろん勝手に感じたことであり、バンド側がほんとにそう思っていたかは判らないが、しかし、「ん?」と思わせるのは、バンドとしてはかなり危険なことではある。
 
これを友人はとてもうまく表現していた。だいたいこんな感じで。
「ひとつのバンドを長い間気にかけて追っていると、ふっとバンドの活動の線がブレる瞬間がある。それを察知すると、冷める」
 
売れようとすることや、流行を先どりすることは、決して悪いことではないと思う。
しかし、それが方向性のブレ、あるいは精神的なブレとして受け取られる場合、離れるファンが出てくる。
 
MADもGLAYも、私たちがファンをやめてからさらに大きなバンドになっていた。
だから、たぶん彼らの方向性は間違っていなかったのだろう。商業的にはね。
でも、それでよしとするファンばかりではない。
別に我々はバンドに精神的高尚さを求めているのでは決してなくw、破滅的にも自堕落でも問題ないんだが、活動を通して、何かひとつ貫いていたことが途切れるのは痛い。 
 
人間だから、変るのは当然なのだけれども、それでも変らない何かってのはある気がする。(非常にクサイ一文。)
それを商業的側面と天秤にかけても捨てないこと、それがきっと最後はバンドのもつ説得力になっていく。