極上の歌い手

だな、ほんとにな、森山直太朗はな。
 
ってことで今日は森山直太朗のコンサートですた。
演劇がかってることもなく、個人的には今回みたいなのの方がいい。
ただ、趣向を凝らすのはやはり好きなようで、自分がデジカメで撮った写真をスライドで見せてたのだが、最初に出てきたのが、会場だったセンチュリーホールのロビーに置いてあった珍妙なモニュメント(?)で、実はそれは、わしも発見して注目していたものであった。って注目するとこが一緒というのは喜んでいいことなのだろうか?
 
つーか、行く前に友人と夕飯を食べたのだが、そんときに、
「森山さんはモリゾーが好きらしい。あの目つきの悪さがいいらしい、媚びてない、ってことで」
とかいう話をしててた。で、前述のスライドにて、モリゾー&キッコロの写真が出てきたんだが、なぜかモリゾーが中心でキッコロは全部写ってなかった(笑)。やはりモリゾー好きなのね(笑)。
 
とまた音楽の話をせずに終りそうな感想文だが(笑)、ついでなので彼が言ってて笑えたこと。
どうも最初から「ハジケ」ていて、やたらはねたりおかしなポーズを取ってたのだが、そういう曲が数曲終ってから、
「どうしてこんなことになっちゃったんでしょうね」
と自分のハジケ加減につっこみをいれていたw
 
次の曲いくとき、バンドの人らに、
「じゃ、あれいこか、あれ」
とゆうて、客に、
「じゃ、次の曲、"あれ"」
(実際は"声"だった。ってこんな曲でフザケていいのかw)
 
あ、そうだ、ひとつ音楽の話をすると、ってこっからネタバレなのでこれから彼のコンサート行く人は読まない方がいいかも知れないですが、アンコールで"さくら"やって、暗転して、当然そこで終りだと思ったら、客電がつかず、結局もう一回出てきました。で、"生きとし生ける物へ"という曲の話をし始めたんだけど。
わしはシングル持ってないんでシングル・バージョンのことは判らんけど、アルバムに入ってるのは途中から合唱部のような(笑)人らの歌も入って、やたらスケールがでかく、わしは正直「そういう曲か?」と思ってたんですな。
したら、森山氏が、ああいうふうにスケールでかくなったのはレコード会社のアイディアで、自分としては、「狭い、暗い、じめじめした部屋で、一番近くにいる、一番大事な人にぼそぼそっと歌うような曲」のつもりだったんだ、という話をした。
まーそりゃ歌詞が

生きとし生ける全ての物へ注ぐ光と影
花は枯れ 大地は罅割れる そこに雨は降るのだろう

なんてやつなので、音的にスケールでかくした感覚も判らんではないが、レコード会社と、アーティスト本人及び聴き手の感覚のズレってのがやっぱりあるんだな、と思った話だった。
ってことで、彼はステージの隅の方に行って(笑)、床に座って、ギターだけで"生きとしいける物へ"を歌いました。
にしてもあの曲の「僕はもはや人間じゃない」ってどういう意味なんだろう?
 
余談。
前から思ってたけど、彼の歌詞は、語りかけてる対象が生きてない人なのではないかと思わせるものが散見される。前に"さくら"のことを書いたけど、"声"も……ああ、あれは逆に死んだ方から生きてる方への語りかけにもとれるし、
題名判らんけど、子供の視点で書かれた内容のような曲で、
「僕の方がイタズラいっぱいしてたのに君の方が早くいかなきゃいけないなんて」
みたいなやつとか、
「天国への手紙を書くため」
とか、曲紹介で、「遠く離れた友達が突然亡くなって(どうのこうの」とか言ってた曲とか。
今回のツアー直前に作ったという"君は五番目の季節"ってのも、スライドで歌詞が映されてたけど、「君の遺香」という言葉が出てくる。(「遺」=「死んだ人が遺したもの」と100%断定はできないけど。ただ、「遺香」をググると、かつて存在したものの名残、的意味で使われているようで、その「かつて存在したもの」は「そのあと移動して、今もどっかに存在してる」って感じでなく、「現在はもうないもの」というのが前提としてある感じです。)
この曲、サビは、「春が来て/夏が来て/秋が来て/冬が来て/そして僕には君が訪れる/君は五番目の季節」という感じだった。で、この曲の最後は「最愛の人よ」なんだけど、何つーのかな、これは完全にわし独自の解釈だけど、失恋しても相手が生きてたら出てこない発想の歌詞ってのかな、別れた相手が生きてて「最愛の人よ」だと、何つーか全体的にもっと未練がましい内容になって然るべきかなと思うのであるが、それがないんだよ、ってかこの曲に限らず、例えば"愛し君へ"も、

愛し君よ 愛し君よ
何処にいるの
今すぐ逢いに来て欲しい
例えばそれが幻でも
いいから

なんてのは、確かに相手が生きていても有り得る歌詞かも知れないが、相手が生きてないととらえた方がわしとしては自然なんですよ、「どうしようもない」感がある。100%、1000%、もう会えないという現実がないと、「幻でもいいから」とは言えない。と言うより、もう幻しか望めない状況だからね、死なれちゃったらね。
"君は五番目の季節"という曲の「最愛の人よ」も、何か永遠性を感じるってか、この先何があってもこの人にとっての「最愛の人」は「君」である感じがする。「君」が生きててもそういう可能性ってあるんでしょうかね? 死んでた方が(個人的には)理解がしやすいんだよね。
よく「死んだ人にはかなわない」と言うけど、何つーのかな、過去の失恋を考えて、その相手がまだ生きてる場合は、過去の恋愛の相手それぞれが比べる選択肢として浮上してくるんだけど、死んでる相手の場合はそういう「選択肢のひとつ」にはならないんだと思うんだよね、もう「絶対」なのですよ、その後別の恋愛をしたとしても、もう別枠でその人への絶対変質しない思いがある。生きてる相手と比べることなく、死んだ人は「最愛の人」なのだと思うのです。
って……今気づきましたが、「五番目の季節」というのは「命日」と取れますね、毎年やってくるもの、としたら。(もちろん、相手の生死に関わらず、例えば出会ったのが7月だったら7月が来るたびに「君の季節」が来る、という解釈もできるけど。)
 
そんなわけで、個々の曲の解釈はともかく、多分彼は過去に恋人を亡くしたことがあるのではないかと思います。ファンの人には申し訳ない、ほんとただの憶測なんだけど、じゃないと書けないことをいっぱい書いているのです、彼は。
ってまあ、真実がどうかってのは我々受け手には一生判らないだろうけど、わしは勝手にそう思うよ、ってことで、おあとがよろしいようで。